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優しい言葉を待っていたわけじゃない。
誰かに同情してもらいたかったわけでもないし、助けて欲しかったわけでもない。
なのに。
それなのに、こんなに暖かい気持ちになるのはどうして?
こんなに……切なくなるのはどうしてなんだろう。
金曜日。
週末の休みまであと一日。
一番きつい曜日でもあるけど、一番張り切る曜日。
来年、うちの部門から出す新商品プレゼンの企画書を上司に手渡して、私は黙って言葉を待っていた。
隣には同期入社をした佐々木くんが、余裕の笑みさえ浮かべて立っている。
余裕……。確かにそうかもしれない。
人が必死に考えた案を、平気で盗むようなことをする人なのだから。
事の発端は先月の頭。
取引先から電話が入ったと知らされ、慌てて電話の応対をしていた私の様子を伺って、立ち上げたままになっていたパソコンから彼がごっそりとデータを抜き出したのだ。
ご親切に、保存してあったものまで全て抹消して。
確かに、無防備にしておいた私も悪かったと思う。
けれど、人の物を盗んでまで成功を得ようとする彼の神経が信じられなかった。
「永瀬くん、この企画じゃ上のオッケイは出ないよ」
二週間寝る間も惜しんでやっとのことで考えたものを、あっさりと突き返された。
「佐々木くんの方が、使いものになるな」
その言葉を聞いて佐々木くんは更に笑みを深くした。
喉元まで出てきた言葉を堪え、私はただ、謝るしかなかった。
「すみません……」
ただ、その言葉しか出なかった。
上司の森岡は大きくため息を漏らし、机の上に置いてあるボールペンで書類に書き込んだ。
「来週一杯」
書類を私に再びつき返す。
「来週一杯、ギリギリ待つから頑張ってみてくれ」
最後通告を受けてしまうと、最早一刻の猶予も許されなかった。
けれど焦りばかりが先走ってしまい、少しもいい考えは浮かばない。
苦しかった。
「……わかりました」
小さく返事をし、書類やディスクで溢れかえっているデスクに戻る。
定時の知らせが社内に響くと、仲のいい同僚たちは皆足早に帰りはじめた。
「お先にー」
鼻歌を響かせながら社を後にする彼女たちを見ても、今の私には「羨ましい」という気持ちすら湧いてこなかった。
どんよりと沈んでいる雲に遮られ、夕陽の一筋も落ちてこない通り道。
考えることは企画のことばかりで、頭がどうにかなってしまいそうなほど。
ビルの玄関を出て階段を下りていると、不意に自分の名前を呼ぶ声が聞えた。
声のした方を振り返ると、そこにはスーツをぴっしりと身に纏った人物がいた。
こんな蒸し暑い時期にも関わらず背広の上下を着たままでいる男は、私の周りには一人しかいない。
大通りの手すりに腰掛けるようにして軽く手を振っている政之のところに、私は小走りで走り寄った。
「どうしたの? こんなところで」
「ちょっと、話があるんだ」
どこか視線を泳がせた調子で言われると、なにごとかと思う。
首をかしげながら、政之の隣に腰掛けた。
しばらく政之から口を開くだろうと思い黙っていたけれど、一向にその気配を見せない。
背後を通る車の音だけが、妙に大きく聞えた。
「話って、なに?」
時間的余裕もあまり無いため、私は隣を覗きこむようにして話し掛ける。
「…………結婚」
「えっ?」
「結婚、することになったんだ」
大きなクラクションに重なるように、政之の口が開く。
突然の言葉に、私は耳を疑った。
……今、なんて……?
聞き間違い、だよね?
聞き返したくても、自分を見つめている政之の面持ちは、まっすぐに、真剣そのものだった。
「そう……」
ただ、その言葉しかでてこなかった。
一本調子の私の返事を聞いて、政之はそそくさと立ちあがる。
「じゃあ」
足元のカバンを取ると、振り返ることもなく歩き出した。
肌にまとわりつく不快な空気が、さらに鬱陶しい。
車が通り過ぎると、僅かな風が背後から吹いてきた。
「……私、彼女じゃなったのかなぁ」
誰に訴えるわけでもなく、ましてや自分自身に言い聞かせるつもりもなかったが、不意に言葉が出てしまった。
前を行く男の人が怪訝そうに私のことを見ていたが、他人のことを気にする余裕なんて……どこにもない。
花の金曜日? そんなの……嘘に決まってる。
程よく空調の効いている寝室で、私は一人、布団の中に潜りこんでいた。
時刻は深夜の三時半。
カチカチと時を刻む時計の音が、やけに耳障りだ。
何度も何度も寝返りを打つが、やすらかな眠りは訪れない。
どうして……嫌なことって重なるのかなぁ。
そんなことを考えていると、どこからともなく鳥の囀りが聞えてきた。
結局一睡も出来ぬまま、夜が明けてしまった。
ベッドから降りると、闇を生み出していた部屋のカーテンに手をかける。
外は、どしゃ降りの雨。
当たりどころのない心内を表しているかのような、梅雨の……雨。
こんな日は家にいるのが一番とでも言いたげな天気だ。
深くため息をつきながら、再びベッドに腰掛ける。
長い、長い……土曜日の朝だった。
真っ白なモニタを見つめていても、何かが浮かんでくるわけでもない。
金曜日のあの出来事からずっと、私は眠れないでいた。
眠い。
身体はそう訴えているのに、心がそれを拒否している。
手元に置いてあるミネラルウォーターを口にして、椅子から離れた。
テーブルの上の携帯が鳴っていたのだ。
政之……なわけないか。
そう思いながらも、どこかで期待をしている自分が恨めしい。
ディスプレイには番号は表示されておらず、公衆電話とだけ表示されていた。
「……はい……」
少し間を置いて応答すると、向こうから聞えてきたのは中学時代からの友人の声だった。
「実咲? 今、大丈夫?」
緊張した声が鼓膜に張り付いた。
「奈津? どうしたの?」
「急いで、船越総合医療センターに来て!」
叫び声に近い奈津の声に驚くばかりの私に、追い討ちをかけるかのように告げられた。
「杏子が……手首を切ったって……!」
雨足は昨日から弱まることなく、ずっと降り続いている。
今の私にはぴったりなシチュエーションかもしれない。
仕事は駄目だし、男には捨てられ、挙句友人は自殺未遂。
「手首を切りたいのは、私だって同じよ」
辛いときだっていつでも三人で乗り越えてきた私たちだったのに……。
突然の杏子の裏切り行為に涙が出た。
パソコンの電源を落とし、急いで部屋を後にする。
家からそう遠くない病院に向かって私は走っていた。
日曜日の昼間だというのに、この天候も手伝って、人通りは疎らだった。
「実咲、なんか顔色悪くない?」
冷えすぎるほどクーラーの効いた社内で会議用の資料を作っていると、同僚の沙智に声をかけられた。
「ん? 大丈夫よ」
ここ数日の疲れが、押し寄せてきているのが自分自身でもよく分かっていた。
頭は痛いし身体も重たくて、なによりも胃痛が酷い。
食欲もないからまともな食事も摂っていなかった。水分ばかりだ。
けれどこの一週間はどうしても乗り切らなければいけない。
佐々木くんに負けてなるものかという考えだけが、今の私を突き動かしているエネルギーかもしれない。
「今日、長澤くんたちと飲みに行く予定立てたんだけど……どうする?」
備え付けのコーヒーメーカーから湯気を立てているコーヒーを注いで、沙智は私の机に置いてくれた。
「ん……ごめん。今週一杯厳しいんだよね、これがさ」
資料を指差し苦笑すると、彼女は露骨に顔をしかめた。
「佐々木のやつ本当に腹が立つよね。見てよ、あの余裕の顔」
窓際で他の同僚と楽しげに会話しているのを見て、沙智は更に口調をきつくした。
「女に負けて悔しくないのかってね。卑怯な男だよ全く。実咲もね、人が良すぎるんだよ。ガツンと言ってやらなきゃ! ああいう馬鹿な男には!」
息巻く沙智は、私にと入れてきてくれたコーヒーまでも飲み干して、カップを力一杯握りつぶした。
やられた張本人の私よりも怒りを露にしている。
もともと佐々木くんを嫌ってた沙智にとって、今回の一件でますます印象を悪くしたみたいだ。
もっとも、私だってあまり好きではなかったけれど。
「あれ? 喪服……?」
ふいに、私の足元に置いてあったバッグや衣装ケースを見て、沙智は首をかしげた。
「仲良かった友達がね……」
言葉を濁す私を見て、沙智がそっと肩を叩いてきた。
「私も去年、弟が死んだのよ」
「そう……だったの……」
「飲酒運転でね。あっけないもんよ、人間なんて」
友人の死ももちろん堪えるが、身内の死となると辛さもひとしおだと思う。
私なんて……弟が死んだりしたら、どうにかなるかもしれない。
年の離れた、可愛い弟。
「気をつけて行ってきなよね、お葬式。実咲も相当疲れが溜まってるって顔してる」
「ん……ありがと」
今の私には、こうやって励ましてくれる人がいるだけで心強かった。
傍らにいてくれたはずの人は、もういない。
温もりを求めている場合ではないけれど、やはり人恋しさは募るばかりだ。
杏子の葬儀のことを考えると胃痛がさらに酷くなった。
昨日の病院で目にした杏子の両親の取り乱しようは、言葉では言い表せないほどだった。
無理もない。
かけがえのない一人娘だったんだから。
週のはじめから、辛いことが重なった。
この年で、友人の葬儀に参列するだなんて……。
next.....「Peaceful Love(後編)」
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「Peaceful Love(前編)」をお届けいたしました。
こちらも一年半ぶりの改稿作業となりました。
微妙な箇所はまだちらほらとありますが、ひとまずこの状態で公開いたします。
小さな偶然が度重なる。
それがいいことならば嬉しいですけれど、辛いことだと些細なことでも苦しくなりますよね。
実咲には、この出来事を踏み台にして、もっと素敵な女の人になって欲しいと思っております。
それでは、今回もここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。
2004/3/2
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