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「お清めの塩、置いておくの忘れてた」
玄関の鍵を開けるところまで来て、私は肝心なことを思い出した。
昔からよく、母に言われたものだ。
“会葬礼状で貰うお塩ではなくて、出かける前にちゃんと用意しておくのよ”
幼い頃から言われ続けてきた言葉が、脳裏を過った。
過ったけれど……そんな気力も湧かない。
もう、どこにも出かける力なんて、残ってない。
迷信に決まってる。そう言い聞かせて、私はそのまま中に入ってしまった。
「シュウ、ただいま」
玄関を開けると、留守の家で寂しく待っていた飼い猫がやってきた。
一人暮しをはじめたときに友人に分けて貰った、可愛い濃灰色のロシアンブルーに擦り寄られると、思わず笑みが零れてしまう。
「お腹空いたでしょう? ごめんね、帰りが遅くなっちゃって」
傍らに温もりがあるだけで、こんなに落ち着ける。
受け皿にお気に入りの餌をよそってあげると、喉を鳴らしながら喜んで食べはじめた。
冷蔵庫を開け、私もなにかを食べようと探ったけれど、手にしたのは水の入ったボトル。
今の私は、渇きが癒されれば……なんでも良いのだろうか。
左手で冷たい身体を抱えたまま、いつのまにか私は実家に電話をしていた。
実際、限界が来たのかもしれない。
「お母さん……今から家に来てくれない?」
家を出てからは、一度たりとも甘えたことはないつもりでいた。
自分で、生きているつもりでいた。
でも……もう限界。
昨夜から根を詰めてしていた仕事だったが、いつのまにかパソコンの前で潰れてしまっていた私は、足に当たったひんやりとした感触に硬直した。
足元で、小さく丸まったままシュウは死んでいたのだ。
さっきまで、あんなに……元気だったのに。
一体どうして、こんなことに。
目の前が真っ暗になるとは、こういうことをいうのかもしれない。
こんな状態になりながらも、もう一人の冷静な私が冷ややかに言った。
『提出用の企画もまだ仕上がっていない状況で、会社を休むなんてできるわけがない』
確かにその通りだった。
今休めば間違いなく、企画は佐々木くんの手に渡ってしまうだろう。
けれど、この子だけ残して出かけることなんてとてもじゃないけれど出来そうもなかった。
「私がなにをしたって言うのよ……っ」
小さな亡骸に縋りつき、あらん限りの声を出して私は、泣いた。
憔悴し切った状態で、それでも出勤している自分が許せなかった。
会社に来たからって、良い案が浮かぶわけでもない。
込み上げてくる吐き気を堪えながら、こんなところにいる自分を呪った。
真夜中に電話をしたにも関わらず、母は朝の七時過ぎに駆けつけてきた。
そんな母にシュウを預けると、逃げるように家を出てきたのだ。
「実咲、本当に大丈夫? 昨日よりも体調悪そうじゃないの」
いつもと同じように、パンツスーツにスラリとした長身をしまいこんだ沙智が、声をかけてきた。
今は誰にも関わって欲しくなかったけれど、なんとか笑顔を作って応える。
「大丈夫。心配しないで」
酷くなる胃痛と吐き気、そして頭痛を堪えて椅子から立ち上がると、ものすごい勢いで血の気が引いていくのが分かった。
しまった……!
そう思ったときには既に遅く、崩れ落ちるようにその場に倒れこんでしまう。
隣からは沙智の叫び声。
お願い……誰か、助けて。
最後に思った言葉は、そんな情けないものだった。
これが、今の私の本心なのだろうか。
なんの夢を見ることもなく、私は意識を失っていた。
実際は見ているに違いないが、それを覚えることもないほどに深い眠りについていた。
そんな眠りから私を連れ出したのは、左腕に感じた鋭い痛みだった。
?
ぼやける視界を見つめながらゆっくりと瞳を開けると、一人の医者が看護婦を連れて、なにやら私の様子を見ている。
「…………ろう」
未だ覚醒しきっていないせいか、周りの音が酷く小さく聞こえる。
かがみこんで私の顔を見つめているらしい人物に、そっと左手首を掴まれた。
「大丈夫ですか?」
今度ははっきりと聞きとることができた。
低めの、響く艶やかな声。
私は何度か頭を振って、ようやく自分が置かれた状況を把握する。
独特の薬品臭さが漂う室内と、白衣姿で佇む医者と看護婦。
「病……院……?」
「ええ、そうですよ。永瀬さん」
年配の看護婦が私の不安げな質問に、優しく答えてくれる。
「貧血と睡眠不足、精神的ストレスから来る胃炎に栄養不足」
点滴のパックを調整しながら、長身の医師が次々と病状を上げていった。
「仕事ですか? 根を詰めすぎですよ」
苦笑しながら私を見つめて、先生は私の行いを咎めた。
「担当医の宮園です。こちらは婦長の長滝さん」
落ち着いた化粧に物腰をした少し年のいった婦長さんも、私を見て苦笑する。
「男の人にはわからない、仕事に対する女の意地っていうものもあるんですよ、宮園先生。ね?」
婦長さんは私が倒れた事情など知っているはずも無いのに、隣に立つ長身の医師に対して諭すように声をかけたあと、同意を求めるように私を見る。
それは、彼女もまた婦長という立場に至るまで、様々な苦労や努力をしてきたことを無言で語っているようだった。
「……ええ」
婦長さんの言葉で仕事のことを思い出した私は、点滴の繋がっていない右手で額を押さえながらベッドから起き上がり、仕事を片付けるために会社に戻らなければいけないことを二人に告げた。
言ったのはいいけれど、あっさりとそれを止められた。
「永瀬さん、ご自分がどういう状況で倒れられたのか分かってますか? このままあなたを会社に戻して、今度は過労死でもされてしまったら、私は診断ミスと糾弾された挙句、医師免許を剥奪されますよ。最低でも三日はここで入院をして頂かないと、医者として帰宅許可を出すわけにはいきません」
「でも先生、私本当に仕事があって……。今週中に提出しないといけないんです」
認めたくなかった。
――自分の負けを。
“女に企画を任せるのは無理だ”
そう思われてしまうのが嫌だったし、なにより……佐々木くんが我がもの顔をしているのが許せない。
「……永瀬さん、医者の言うことは聞くものですよ。これでも専門職なんですから」
もう一度釘をさすように言われてしまい、私は口をつぐんだ。
ここを抜け出すのは、とても無理なようだったから。
意地を張っているだけなのかもしれない。
けれど、そうして自分を保っているのもまた、事実だった。
二人が出て行き、静まり返った人気のない病室で、私は携帯電話を取り出した。
一番かけたくなかった番号を検索し、通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後に出た課長は心配そうな声で病状を聞いてきたし、仕事に関することで責めたりはしなかった。
けれど、私にもう一度チャンスをくれるのだろうか。
そう思うと、やはり悔しさが込み上げてきた。
仕事をしないでベッドに横になっているだけなのに、時間は瞬く間に過ぎていった。
気付けば二日も経っていて、最悪だと感じはじめた日から、もう一週間が来ようとしていた。
吐き気もなくなり、文字通り静養することができた私は、明日には退院してもいいという許可も貰えた。
また来週から仕事三昧の日々が待っているのは、考えなくても判りきっていることだ。
夕陽が差し込める病室のベッドから抜け出して、私は屋上に向かった。
運良く、誰一人そこにはおらず、街を見下ろせるような場所にあるベンチに腰掛ける。
途中で買った煙草に火をつけ、大きく空を仰ぎながら、決して身体には良くないであろう煙を大きく吸い込む。
――こんなにおいしかったっけ?
高校のとき、はじめて付き合った彼氏に勧められて吸っていた煙草だったけれど、政之には“女が吸うもんじゃない”と頑なに喫煙を止められていたから、いつしか自然と吸う本数も少なくなり、煙草は絶っていた。
独特の煙が鼻の奥を、そして肺を巡っていき、脳まで浸透するかのようだ。
「……本当に、最悪なことばっかり重なるんだから」
空に浮かぶ雲と同じ色をした煙りを見つめて、自嘲的に呟く。
ぼーっと見上げている視界の中に、突然人の顔が入ってきた。
びっくりしている私の隣に、その人物は腰掛ける。
「私にも一本頂けますか?」
むしろ病み上がりの身体で、こんな場所で煙草なんかを吸っていることを咎められるかと思っていただけに、拍子抜けしてしまう。
未成年でもあるまいし、そこまで干渉されないと分かっていても、悪いことをしているところを見つかってしまった子供のような、少しの緊張を含んだ感情だっただけに余計だった。
「え、ええ……」
冷静さを装いながら、手元においてあった煙草とライターを手渡す。
同じように空を仰ぎながら、宮園先生は大きく息をついた。
「体調はどうです? 大分良くなりましたか?」
「おかげさまで。ご迷惑おかけしました」
その言葉の後、しばらくの間があった。
どこからか聞こえてくる烏の鳴き声が、いつもより妙に大きく感じられる。
はじめて会った人なのに、なぜか隣にいるのが心地よい。
自分自身でもよく分からないような奇妙な感情が、私の中をぐるぐると回っているようだ。
「永瀬さん、」
ただ名前を呼ばれただけだというのに、鼓動が大きくなる。
「はい?」
「無理はなさらないで。仕事をするにも、身体あってのことなんですから」
――わかっているつもりだった。
意地を張って、むきになって。
これ以上は過負荷だと、私の中のもう一人は叫んでいるのに。
それでも自分ならできると、こんな些細なことで負けていられないと。
「頑張ることが悪いとは言いません。けれど、なにかに頼ったり、甘えたり……そういう風に意識して力を抜かないと、今度は本当に永瀬さん自身が壊れてしまいますよ?」
当たりまえのことを言われているだけなのに。
こんなの社交辞令みたいなものだって、別に心のそこから私のためだけに言ってくれている言葉じゃないんだって……きっと皆にも同じようなこと、数え切れないほど言っているんだって。
子供じゃないんだから、そのくらいわかっている。
そのはずなのに……どうしてだろう。
この人の言葉が、こんなにも胸にしみる。
まるで私のことを本当に思ってくれているような、優しさのこもった言葉。
「……すみません、私、なんで……っ」
堪え続けていた苦しみが涙になって溢れ出した。
政之の前でさえ泣いたことのなかったこの私が、会ったばかりのこの人の前で。
静かに差し出された彼のハンカチを目元に持っていくと、微かな香りが鼻腔をかすめた。
「辛ければ辛いと、素直に言えることが大事なんですよ」
わずかに強さを増しはじめた風からかばうように、彼は私の肩に白衣を羽織らせてくれた。
まるで抱きしめられているかのように、それに残る温もりと香りが私の身体を包み込む。
瞬間、心が開放されるのを、はっきりと感じた。
片意地を張っていた自分がふっと消え去り、ただただ、彼の言葉がゆったりと入ってくる。
「私……本当に馬鹿で……。必死に自分を奮い立たせて、苦しくないんだ、辛くないんだって、そんなことばかり考えてて」
燻りつづけていた感情を、こんなにも簡単に開放できるなんて思ってもいなかった。
「……続けて」
「どこかでわかってはいたけれど、そんな自分が許せなくて苦しくて。けれどやっと……楽になれた気がするんです」
ただ黙って、優しく私の話に耳を傾けてくれる彼は、まるでシュウのようだった。
楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。
そんな数え切れないほどたくさんの話を、私はよくあの子に聞かせていたから。
「あなたは本当によく似てる」
柔らかな微笑みを浮かべた宮園先生は、なにか大切なものを思い起こしているように、私の顔を見つめてきた。
似てる?
私が? 誰に……?
疑問を口にしようとしたときに響き渡ったコール音に、私の言葉は飲み込まれてしまった。
「すみません、呼び出しが」
でも、ちょうど良かったのかもしれない。
彼の思いの先にいるのは、どうやら私でないことは確かだったから。
「いえ、いいんです。お忙しいのに私の話につきあわせてしまってごめんなさい」
肩にかけられていた白衣を簡単にたたんで、彼に返す。
「行ってください。患者さん、待っていますよ」
それを受け取った彼はごく自然な仕草で腕を通し、軽くボタンを留めて襟を正した。
白衣ひとつで、こんなに雰囲気が張り詰めたものに変わるのがすごい。
「永瀬さん、話しができてよかったです」
「私こそ。ありがとうございました」
「それじゃあ、私はこれで」
階段を降りていく宮園先生の姿が見えなくなったのを確認すると、もう一度ベンチに深く腰掛けた。
大きく大きく息を吐きながら空を見上げる私の指先に、安物のライターがあたった。
ライターの下には煙草と、宮園先生に手渡されたハンカチが置いてある。
「肝心なものを」
主のもとを離れてしまったハンカチは、どこか落ち着かないように私の手の中に収まっていた。
自分の行動に信念を持てば、たとえそのときの結果がよくなかったとしても、いずれは認めてもらえる。
根を詰め、ただそれだけを一心に考え続けるだけだったのが、こうも楽観的にものごとを捉えられるようになるなんて、誰よりも驚いているのは私自身。
そんな偶然の出会いで救われた私が――。
生まれかわることができた私が再び彼と出会うには、それから三年もの月日を要することになる。
end............
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「Peaceful Love」(後編)をお届けいたしました。
何年!? 二年!? 二年ですか。そんなに間が空いていただなんて、ありえない…。
しかもこんな微妙な終わりかたで。
「君声シリーズ」をお読みいただいている方(Heartstrings含む)には、割合分かりやすい登場人物だったのではないでしょうか。
今回のヒロインの永瀬実咲は、永瀬麻澄の姉にあたります。
ネタばらし? ですが、実咲と瑛が出会ったのは、麻澄と瑛が付き合って二年目辺りの時期です。
瑛が実咲を通してみていたのは、麻澄だった……という裏設定になっております(笑)
医者だし、カルテや顔なんかを見れば、姉弟だなんて簡単に分かっちゃいますよね。
というわけで、今回はこの辺で。
次回の更新で、この作品のサウンドノベル(背景写真とBGM・効果音で作られた小説)を掲載いたします。
ビジュアル的により? 実咲の心情が伝わりやすくできていると思いますので(まぁ、私はだけど;)
よろしければ、こちらもお付き合いくださいませ。
2004/8/19
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