日も高く昇っている時間だというのに、部屋の中は薄暗い。
 ベッドに横になりながら、サイドに立てかけてあるフォトスタンドの写真を見つめているのは、一人の青年。
 幸せそうに微笑んでいる女性の横には、優しそうな面持ちをした背の高いの男の姿があった。
 足元には幼い子供も写っている。
「母さん……」
 今はもういない母親に向かって、青年は語りかける。
 その言葉が、届くはずも無かったが……。



 駅前のターミナルに停車しているタクシーを拾い、瑛と麻澄は宮園総合病院へと向かっていた。
「車で来た方が良かったかもな」
 後部座席の左側に座り、流れる景色を見つめながら瑛が呟く。
「やだよ。瑛の車目立つから、乗ってるこっちが恥ずかしい」
 即座に言い返す麻澄に、瑛は苦笑した。
「だいたい日本向けの車じゃないってば。あれは……」
「お前だって、昔は喜んでたじゃないか」
「そんな昔の話するなよ!」
 そっぽを向いて言い張る麻澄の心の奥には、忘れたくても忘れられない恥ずかしい過去の記憶が甦っていた。
「今度、海にでも行くか?」
 麻澄がそのことを思い出しているのを見て取った瑛は、わざと話をそっちの方向に振る。
「しつこいよ、瑛」
 頬を赤くしながら反抗する麻澄が、可愛くて仕方がない瑛である。
 そんな会話をしているうちに、車は病院の正面玄関に到着した。
 ひっきりなしに開閉する自動ドアからは、患者を見舞うために訪れた人達や、体調の悪そうな人が出入りしていた。
 降りたその足で中に入ろうとする麻澄を、瑛は後ろから呼び止める。
「そっちじゃなくて、こっちだ」
 行く先は、右側にひっそりと佇んでいる剥き出しのコンクリート外壁の建物。
 一見の者には、それが病院の施設の一部だとは思えないであろう。
 外観を改造したのは他でもない、現院長の宮園沙希子、その人だった。
「なに? 別な場所にあるの?」
 他の人に漏れず、麻澄も不思議そうにその建物を見つめる。
「あぁ。院長室や事務局なんかは、こっちにあるんだ」
 親指で示しながら麻澄に説明をした瑛は麻澄を連れて渡り廊下の下を通り過ぎ、別館の入口へと辿り着いた。
 回転式のドアを押し中に足を入れると、麻澄は驚嘆の声を上げる。
「うそ……。ここが、病院!?」
 麻澄がそういうのも、無理はない。
 外側のコンクリートと同じような内装をイメージしていたため、内部の統一された白い空間に、まず驚く。
 二階まで吹き抜けになっているホールには、微かな音量で響いているクラッシック音楽。
 グレーの絨毯が伸びた先には、ガラスで仕切られた部屋がある。
「そこが事務局」
 中の仕事ぶりが、一目で確認できてしまうような構造になっている。
 一階には、余裕がありすぎるほどに広々としたスペースの事務局以外の部屋は作られていなかった。
「二階には割り振られた医者達の仮眠室がある。看護婦たちの寮は、ここから離れたところに建っているんだ」
 階段を登りながら、瑛は麻澄に様々な説明をしていった。
「院長室には、二階に設置されている直通のエレベーターか病院内の渡り廊下から行けるようになっている」
 事務局を囲むようにして左右に広がっている緩い階段の一つをあがり、瑛は三階へ繋がるエレベーターのボタンを押した。
 静かに開いたドアの中に入ってはじめて、麻澄はようやく口を開く。
「なんか……どこかの会社みたい」
 少し気圧されてしまった麻澄は、それしか言葉で表せなかった。
「そうか?」
「う……ん」
 わずかではあるが顔色を悪くした麻澄の口調は、どこか重苦しいものを含んでいる。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ」
 瑛は肩を抱き寄せ、優しげな口調で麻澄を落ち着かせた。
「俺が、傍についてる。お前はなにも心配しなくていい」
「ん……」
 頼りなげな微笑を浮かべ、麻澄はそっと瑛の身体にもたれかかった。
 ――心配しなくてもいい……か。
 だったらどうして、昨日の瑛はあんなに苦しそうな表情をしていたのか。
 瑛も心配なんじゃないの?
 そう聞きたい思いに駆られはしたが、返ってくる言葉を聞くのを恐れていた。
「先に俺が部屋に入って話をつけてくるから、外で少し待っててくれるか?」
 降りた場所のすぐ左側に、茶色の大きな扉があった。
 横には院長室と書かれたプレート。
 瑛は傍らの麻澄に小さな声で告げる。
「分かった。ここで待ってるから」
 その言葉を聞いて安心した瑛は頷き、意を決して扉を叩いた。
「瑛です……。入ります」
 麻澄には、瑛の入っていった院長室の扉が永遠に開くことがないもののように感じた。
 ――早く戻ってきて。
 そう思いながら、瑛が出てくるのを待つ。
 しばらくの間閉じられたドアを見つめていた麻澄だったが、中での会話が聞き取れるわけでもない。
 窓の外に視線を移す。
 車椅子を押してもらっている少女に目が行った。
 そんな光景を見て、改めてここが病院なのだと思う。
 柔らかな風が、麻澄の頬を掠めた……。



 部屋の中央に置かれた応接セットの椅子に腰掛けているのは、瑛と母親の沙希子である。
 修一は、部屋の奥にある給湯室で三人分のお茶を淹れているところだった。
「随分と久しぶりね、瑛。元気だったかしら?」
「……はい」
 声を弾ませながら煙草をくゆらせている母親の姿を見つめ、瑛は答えた。
「母様も、お元気そうでなによりです」
「あなたの顔を見れて、ますます元気になったわ」
 先程自分と会話をしていたときとは、打って変わったような幸せで嬉し気な口調の沙希子に、修一はやかんを持った手を止めて苦笑した。
「私も、お前から電話を貰ったときは、なにごとかと思ったよ」
 沙希子の隣に腰掛けた修一だったが、隣にいる沙希子が僅かに端にずれたのを見て、再び苦笑を漏らした。
「その話なんですが、じつ…」
「ちょっと待って」
 瑛の言葉を遮るように、沙希子の声が重なった。
 突然立ち上がると自分の机に行き、引き出しからひとつの封筒を取り出す。
 何度となく見た覚えのあるそれに気づくと、瑛はとっさに立ち上がった。
「母様、今日伺ったのは、そのお話のことでなんです」
 いつもは見合いの話など聞く耳すらもたない瑛の方からその話を持ち出してきたことに、沙希子は驚いた。
「まぁ! もしかして、先日お会いした桐影さんのお嬢様と、お付き合いしているの?」
「いえ……」
「それじゃあ、その前の藤沢さんのお嬢さんかしら?」
「いえ、そうではなくて……」
「だとしたら……」
 思い浮かんできた最近の見合い相手の名前を次々にあげていく妻の様子を見て、さすがに修一も口を挟んだ。
「沙希子、瑛がなにかを言いかけているのだから聞いてあげたらどうだい?」
「…………」
 不愉快そうに口をつぐむと、沙希子はハイバックの椅子に音を立てて腰掛ける。
 まるで子供のようなその姿に、修一のみならず瑛も呆れかえった。
 沙希子が静かにしている間に、瑛はいいかけた言葉の続きをはじめた。
「お付き合いしている人がいるんです」
 母親が息を飲んだのが、離れた席に座っている瑛にもはっきりと分かった。
「だからさっきから言ったでしょう? どこのお嬢さんなの?」
 ――私の言ったことが正しかった……といった表情で、沙希子は修一を睨む。
 白衣の内側から煙草を取り出し、デスクの上に置いてある、大理石で作られた四角いライターで火をつける。
「永瀬麻澄……明學館大学に通っている人です」
「大学? 随分と若い方なのね。永瀬さんと言うと、どちらの?」
 沙希子がこれまで瑛に合わせた女性たちは、皆それなりに財力のある家庭に育った、教養のある女性たちばかりだった。
 明學館と聞いた時点で、相手がさほど上流なところの娘ではないということに気づく。
 そう思ってはいるものの、あえて沙希子は尋ねた。
 だが、瑛は母親の質問に答えなかった。
「瑛? どちらのお嬢さんなの?」
 再度尋ねられたそのとき、瑛は伏せていた瞳を上げると真っ直ぐに母親の目を見つめ返した。
「女性ではないんです」
「……な……んですって?」
 肘掛けに片腕を置きながら、瑛の言葉に瞳を眇めた。
「今、なんと言ったの?」
 荒々しく煙草を揉み消すと沙希子は立ち上がり、瑛の目の前に立った。
「答えなさい、瑛!」
 スーツの胸元を掴み上げ、怒りのあまり震えがかった声で叫ぶ。
「馬鹿なことを言ってるんじゃないわよ? 男と付き合ってる……そう言いたいんでしょうけどね、そんなこと……どこの親が許すと思っているの!? ましてあなたは、ここの病院を継ぐ立場にいる人間。冗談を言うのも、ほどほどにしなさいっ!」
「沙希子っ! そんな大声を出さなくてもいいだろう?」
 いつにない激昂ぶりに、黙って会話を聞いていた修一も立ち上がる。
 瑛との間に入ると、妻の手を掴み取って距離を置かせた。
 しかし、その修一の行動がさらに沙希子の怒りを大きくさせてしまった。
「あなたは黙ってて! この子は私の子供なのよっ!」
「瑛は私の息子でもある……」
 優しく言い諭しながら、修一は沙希子の手を離した。
「あなたの子供ですって? なにをとぼけたことを言ってるの……」
 鼻で笑いながら、沙希子は修一の言葉を聞き捨てた。
 言い合う両親の姿を見ながら、瑛はドアに視線を向ける。
 ――やはり無理だったか……。
 瑛は奥歯を噛み締め、静かに怒りを堪えていた。
 今までなんのために麻澄との時間を犠牲にしてまで母親に従ってきたのか。
 それはやはり、父親に裏切られた母親の希望に添ってあげなければ可哀相だという気持ちがあったからからに違いなかった。
 だが、それにも限界がある。
「母様、たとえあなたに反対されたとしても、自分の気持ちが変わるわけではありません」
「私の気持ちだって、変わらないわ」
 互いに譲らぬまま、張り詰めた空気が流れていく。
「認めてもらえなかったとしても俺はここを継ぐつもりはありませんし、結婚をする気もありません。麻澄と共に生きていくと決めたんです」
 ただ一人、子供のためだけに全てを投げ打つようにしてきた十数年。
 沙希子は自分の全てを否定されたことを感じ、絶望した。
「……そんなに……ここを継ぐのが嫌だと言うの?」
「すみません……」
 瑛のその言葉を聞いてしまった沙希子の目から、涙が零れ落ちた。
 ――夫に捨てられ、子供にも見離されたのね……。
 心の中で自嘲的に呟きながら濡れた目元を拭い、背を向けて小さく呟いた。
「好きにしたらいいわ」
「母様……」
 母の期待を裏切ってしまったことに、瑛は少なからず胸を痛めた。
 こんな姿を見るとは思ってもいなかったからだ。
 ――あの気丈な母が、涙など。
「しばらく、一人にしてちょうだい……」
 黙って母親の様子を見ていた瑛だったが、修一に肩を叩かれ促されるように院長室を後にした。
 残された沙希子が、無表情のまま再び煙草を取り出しているのに気づかぬまま……。



 けたたましいサイレン音を響かせながら、救急外来用の入口に停められる救急車。
 ボーッとその様子を見ていた麻澄は、突然背中を押されて驚きの声を上げた。
「わっ!」
「悪い。驚かせたか?」
 少し疲れた面持ちで自分を見ている瑛の姿を、麻澄は見つめ返す。
 聞きたいけれど、聞くのが恐い。
 正直な心境だった。
 互いに黙り込んでいたところに、柔らかな声が割り込む。
「君が、麻澄くん?」
 声の主の方を振り返った麻澄の目には、最愛の恋人に面影が良く似た壮年の男の姿が写った。
「はじめまして。瑛の父親の宮園修一です」
 にこやかに微笑みながら手を差し出した修一に習うようにして、麻澄もおずおずと手を差し出す。
「はじめまして。永瀬麻澄と言います」
 修一は微笑を崩さぬまま、麻澄の顔を覗き込むようにして幾分低い声で瑛に向かって語りかけた。
「随分と綺麗な子なんだね。瑛が好きになるのも無理はないかな?」
「父さんっ!」
 瑛は慌てて麻澄と父親の手を引き剥がした。
 大きな笑いを零しながら、修一は麻澄に向かって頭を下げる。
「こんな息子で申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「あ、あの……」
 どう対応すればいいのか判らぬまま、麻澄は戸惑いながら隣にいる瑛を見上げた。
 麻澄の耳元で、瑛は小さく囁く。
「そういうことだから、大丈夫だよ」
「それじゃあ……?」
 大きく頷かれ、麻澄は身体から一気に力が抜け落ちるのを感じた。
 ずっと緊張状態でいたために、一気に疲れが押し寄せてくる。
「おっと……平気か?」
 ふらついている麻澄の肩を抱き寄せた瑛は、心配そうに様子を伺った。
 見つめられた麻澄は、目の前に修一がいるというにも関わらず心臓が高鳴ってしまうのを感じた。
「だっ、大丈夫だから」
 それをごまかすために咄嗟に腕を伸ばして瑛から身体を離すと、再び修一に向き直った。
「あの、こちらこそよろしくお願い致します」
 深々と頭を下げる。
 麻澄の礼儀正しさに、修一は感心した。
 それからややしばらくの間、三人で談笑をし合っていたのだが、
「さて、私はまだ仕事が残っているので、失礼するよ」
 思い出したように言うと、修一は下に降りていくエレベーターに乗り込んでしまった。
 ようやく二人になった途端、麻澄の隣で瑛が大きくため息をつく。
「大丈夫?」
 先程とは逆に、麻澄が心配そうな面持ちで瑛を見つめた。
「疲れたよ……」
 壁に寄りかかると、そのままズルズルと座り込む。
 胸元から煙草を取り出そうとしている瑛を咎めながら同じように麻澄もしゃがみこみ、開いた窓を見つめポツリと呟いた。
「お母さんは?」
 火をつけないままの煙草を咥え、瑛は肩をすくめる。
「中にいるよ」
「オレたちのこと、許してくれたの?」
 出て来ない母親を気にして、麻澄は院長室の様子を伺う。
「あぁ、一応な」
 どこか含みのある言い方が気になり、麻澄は立ち上がった。
「ごめん。一人で行かせて」
「ん?」
 なにを言い出すのか? そういった面持ちで見上げると、麻澄が院長室の扉のノブに手をかけているのに気づく。
「麻澄?」
「少し話してくるから、ここにいて」
 ただそれだけを言い残すと、麻澄はドアの向こうへと消えてしまった。
「っ……おいっ!」
 冗談だろうっ!?
 一人で中に入っていった麻澄を呆然と見つめたまま、瑛はその場で思わず固まってしまった。
 少し話してくるから、ここにいて。
 こともあろうに、麻澄はそう言ったのだ。
 ――だからって、あいつを一人であの人のところに行かせるなんてことは……。
 慌てて扉に手をかけるが、麻澄の意思を尊重してやりたい思いも大きかった。
 なにかあったら、すぐに入ってやれば大丈夫だろうか。
 いくら渋々同意してもらったとはいえ、先ほどの沙希子の取り乱しようから考えると中の状況が気がかりで仕方がない。
 木目の入った扉に手を当て、瑛はしばし逡巡する。
 悩んだ末に瑛が取った行動は、結局その場で待つことだった。
 窓から見える、建ち並んだ高層ビルの向こうには、色を増し始めている薄灰色がかった雲が見えた……。



next.....「君に声が届くとき(9)」





君に声が届くとき(8)をお届けいたしました。

麻澄との関係をついに打ち明けた瑛。
涙を見せた沙希子の思惑は、果たしてなんなのか…。
院長室に入ってしまった麻澄には、思いも寄らない言葉が待ち受けております。
気になる方は、次のお話にお進み下さいませ(^^*

それでは、今回もここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


2004/2/4



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