ガラス張りの机の上に山のように置かれている書類の中から、一枚の紙を取り出す。
 牛皮で作られている黒椅子。
 一目見ただけで高価な物とわかるそれに深々と腰掛けながら、女性は浮かない表情をしていた……。
「突然、なんの用があると言うの」
 咥えていた煙草を揉み消し書類を引き出しの奥にしまいこむと、窓際に立ち下を見下ろす。

 宮園総合病院───。
 三代続く、それなりに街では有名な大病院である。
 先代の院長には娘しか生まれなかったために、その娘である沙希子が後を継ぐ形となった。
 幸いなことに沙希子には一人の男児が生まれ、この病院も確実に後世に受け継がれていけるものだと思っていた。
 だが後継ぎとして当然のように育てられた瑛は、医学部を卒業し、研修医の時期が過ぎても、一向に病院に戻ってくる気配がなかった。
 幾度となく説得をしたものの、瑛は病院を継ぐ気はないと言い張る。
 沙希子はいつの頃からか、しきりに見合い話を持ちかけるようになった。
 自分がこの病院で院長としている間に……なんとしても身内に継がせるためにも、瑛に子供を作らせ、生まれた 孫にしかるべき教育を受けさせ、この病院を任せようと考えたのである。
 だが、沙希子が瑛自身にこの病院を継がせることを諦めたわけではなかった。
 できれば早いうちに、自分の子供の院長としての姿を見たいと願う母の気持ちは変わらない。
「なにが不満で、ここを継ぐのを嫌がるのか……」
 今日も、運ばれてくる患者を乗せた救急車のサイレン音を聞きながら、宮園沙希子(53)は大きなため息をついた。



 規則正しい呼吸音と心臓の鼓動、傍らのぬくもりを感じて麻澄は瞳を開く。
「ぐっすり寝てるし……」
 やっぱり疲れて無理をしていたのではないか……。
 全く目を覚ます気配すらないまま静かに眠っている瑛を見て、麻澄はそっとベッドから抜け出す。
 起こさないようにと気をつけながらドアを開けて部屋の外に出ると、そのまま真っ直ぐバスルームに向かった。
 シャツを纏ってはいるものの、抱き合った後そのまま意識を失ってしまったためにシャワーすら浴びていない。
 ぬるめのお湯を頭からかぶり手短に身体を洗うと、麻澄はすぐに外に出た。
 着替えを済ませ、冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターを口にし、残った水を部屋の片隅に置いてある観葉植物に与えた。
 乾いた土が潤っていく様子を見ながら、瑛に言われた言葉を思い出す。

『両親の所に連れて行こうと思うんだ』

 あそこまで瑛に追い詰めた表情をさせる両親とは、どんな人なのか……。
 想像をしてみた麻澄だったが、あの瑛からはなんのイメージも得ることができなかった。
 ふいにリビングのドアが静かに開き、気だるそうにした瑛が姿をみせる。
「悪い……ちょっと寝すぎた」
「ううん。オレも今起きたばっかりだから」
 恥ずかしそうに言う麻澄の横顔を見て、瑛は優しく微笑んだ。
 その表情のまま、瑛は唐突に麻澄に向かって告げた。
「さっきの話だが……。実は、今日会う約束をしているんだ」
 驚きのあまりまだ水の残っているペットボトルを落としそうになりながら、麻澄は瑛を振り返る。
「えっ……!?」
 心の準備どころか、そこまで急に会うことになろうとは思ってもいなかった麻澄は、その場で固まったまま動かなくなった。
「準備、すぐにできそうか?」
 真っ直ぐと見つめられてなにも言い出せないままただ頷くと、着替えるために部屋に向かった。
 ――どんな格好すればいいんだよ。
 やっぱ、スーツ?
 でもそれじゃ、いかにも男ですって見せつけるみたいだし……。
 しばし考え込んでいた麻澄だったが、結局普段どおりの服を選んだ。
 黒のスリムジーンズに、長袖のシャツ。
 コートを羽織って大きくひとつ深呼吸をする。
 携帯電話と財布だけを持ちリビングへと戻ると、既にきっちりとスーツを着こなした瑛が麻澄を待っていた。
「可愛い。似合ってるよ、その格好」
「男に可愛いなんて言うな! せめて似合ってるとか格好良いとかって言えないの?」
 ニコニコと笑いながら頭を撫でる瑛を少し睨みながら、麻澄は小声で訴えた。
「うん? 可愛いものは可愛いし、俺から見れば麻澄は充分可愛いんだ。仕方ないだろう?」
 言うだけ無駄だった……と肩を落とした麻澄は、仕返しとばかりに瑛の首に巻かれているネクタイを見て意地悪げに言う。
「そのネクタイ、オヤジくさいよ」
 本当はとっても似合ってる……と思ってはいるものの、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「そうか?」
 左手でタイピンを動かしながら、瑛は自分のネクタイを見下ろした。
「新人ナースからのプレゼントなんだけど」
「……ふ〜ん。よかったね」
 興味なさそうに、麻澄はそのネクタイから視線を逸らした。
「今、少しやきもち妬いただろ?」
 嬉しそうに顔を覗き込む瑛を無視して、麻澄は考える間もなく返した。
「全然っ!」
 口唇を噛みながら麻澄は開いている窓を閉めると、瑛の横を通り過ぎて玄関に向かった。
 黙ってスニーカーを履きはじめる。
「嘘だよ。自分で買ったんだ」
 麻澄の背に、笑いを堪えた瑛の声が掛かった。
 予想通りの麻澄の態度が、可笑しくて仕方がないらしい。
 ――また、からかわれた。昔から、何度この手に騙されたことか……。
「ウソばっかり」
「本当だって! センスいいだろう?」
「…………」
 玄関のドアを開き背中で扉を押さえながら、靴を履く瑛を見下ろした。
「本当に自分で買ったの?」
「もちろん、そうに決まっているだろう?」
 なにを言っているんだ……という口調で麻澄を諭し、瑛も立ち上がる。
「麻澄がどんな風な反応するか、試してみただけだ」
「意地悪……。悪趣味っ!」
 外に出た瑛の背中を大きく叩いて、麻澄はドアに鍵をかけた。
 ――鍵……そういえば、瑛に鍵のこと話してなかったっけ。
 昨日螢に渡された鍵は、机の引き出しに片付けたままになっている。
 タイミングさえあれば渡そうと思っていたものの、結局渡せないままでいた。
 ――いつ渡そうかな。
 そのままの姿勢で考え込んでいる麻澄に気づいた瑛が、声をかける。
「麻澄?」
「ん? あっ、ごめん。今行くから」
 肩を並べてエレベータにー乗り込むと、二人を乗せてゆっくりと下降していった。
 十分ほど歩き駅に着くと券売機に行き、瑛は二枚の切符を持って麻澄の元に戻ってきた。
「はい」
 差し出された切符を見ると、ここからそう遠くはない場所の駅だった。
 もちろん、麻澄も何度か訪れたことのある街。
「瑛の実家、ここにあるの?」
「実家……というより、病院がここにあるんだ」
 何年ぶりに訪れるだろうか。
 最後に足を踏み入れたのは、大学を卒業した頃だったかもしない。
 横にいる麻澄の顔を見ると、不安な眼差しをして瑛を見つめていた。
「大丈夫。俺がついているから」
 心配するな……。
 そう言われてしまえば、麻澄には瑛を信じることしかできない。
 小さく頷いて、二人は構内の雑踏の中に消えていった。



 数年ぶりに息子から電話を貰ったのは、瑛の父親で宮園総合病院の事務局長である宮園修一(54)だった。
「明日話したいことがあるんだ。父さんにも聞いて欲しいことだから」
 ただそれだけを告げて、瑛は電話を切った。
 その後、妻である沙希子からも連絡を受け、同じことを言われた。
 ――改まった話なのだろうか。
 修一は、院長室へと繋がっている廊下を一人歩いていた。
 病棟とは反対側にある棟。
 この建物は、事務局・院長室・各医師たちの仮眠室といった医療とは異なる部屋が中心となったところである。
 病棟内の慌しい雰囲気とは全く隔絶された、静かな空間。
 ここが病院の内部だとは、白衣を着ているものが通らなければ誰も思わないだろう。
 廊下を真っ直ぐ進んだところにに、茶色の扉が姿を見せる。
 院長室と書かれたプレートが右隣にかけられており、そこには院長の……宮園沙希子の名が記されていた。
 ノックと共に、相手の返事を聞くこともなく修一はドアを開けた。
「瑛は何時に来るんだい?」
 どこか懐かしいものを思い出すかのような口調で、椅子に腰掛けている沙希子に問い掛ける。
「三時頃だそうよ……」
 振り向くこともなく外の景色を見たまま、沙希子は冷めた口調で答えた。
 もう何年、夫の顔をまともに見ていないだろうか。
 父親の知り合いの息子。
 そう聞かされて見合いをし、結婚をして子供も生まれた。
 幸せなはずだったあの頃。
 全てが充実していた時間。
 これ以上の幸せを望むのは、罪になるだろうか。
 いつの頃だったか、沙希子はそんなことを思った時期もあった。
 遠い過去の話であったが……。



 満開になった桜の花々が降りそそぎ、道端が淡い色に染まる季節。
 新緑の木々たちは、眩しい光を浴びながら揺れている。
 柔らかで暖かな空気に包まれながら、中等部に進学をした瑛を連れて、沙希子はガレージに車を停めた。
「瑛、今夜はどこかに食事に出かけましょうか?」
 後部座席から荷物を取り瑛に渡す。
「本当っ?」
 まだあどけない面持ちをした少年は、母親の言葉に満面の笑みで答える。
 日頃仕事に多忙な両親とは同じ時間帯に食事を取ることが稀であり、瑛は大抵父親か母親のどちらかと食べることが多かった。
「お父さん、今夜は早いといいわね」
 咲き乱れる花々に囲まれた階段を上り玄関を開けようと鍵を回すと、開くはずのドアに鍵が掛かってしまった。
「あら? もう帰ってきてるのかしら?」
 静かな部屋の様子からは、誰かの気配は感じ取れない。
「玄関の鍵は閉めておくのよ」
 靴を脱いでいる瑛にそう告げて、沙希子はリビングに向かった。
 ガラス張りの扉を開いて夫の姿を探すが、この部屋に立ち寄った形跡はなかった。
 他にいる可能性がある場所と言えば、書斎か寝室のどちらかである。
 二階に続く階段を登り手前の書斎側の扉を覗くと、そこはわずかに開いていた。
「あなた? もう帰っていたの?」
 静かに扉を開き、部屋の主の所在を確認しようとした沙希子の目に飛び込んできたのは、青ざめた顔色のまま呆然としている夫の姿だった。
 瞳だけがただ、一点を見据えている。
 その視線の先には、一通の手紙と写真があった。
 床に散らばったそれらを見た瞬間、沙希子は自分の身体中から力が抜けていくのを感じた。
 これは一体なんなのか。
 それを聞く言葉すら、出てこなかった。
 自分の夫がここまで茫然自失としている様子を見たのは、後にも先にも、これが最後だった……。


 自分の他に、この男には愛した女性がいた。
 沙希子にとっても、過去形ならばそれは構わないことだった。
 結婚をするまで、身の回りが全く綺麗な人間などそういるものでもない。
 だが、その写真に写っているものはなんなのか。
 幸せそうに微笑む家族の写真。
 誰が見てもそう思うだろう。
 沙希子の目にも、そのように写った。
 そこに写っているのが自分の夫でさえなければ、笑って話せる程度のものでしかなかった……。
 何度、この男を殺してやろうと思ったことか。
 自分を抱いたその身体で他の女を愛し、そしてこの家に戻ってくる。
 女として、妻として、これ程の屈辱はなかった。
 あえてそれをしなかったのは、沙希子なりの復讐だったのかもしれない。
 一生愛する女と結ばれることのない運命。
 その女の子供も、父親と共に暮らせることはないのだ。
 沙希子自身が離婚を認めない限り……。
 今まで良き妻を務めてきた沙希子には、あまりに絶え難い現実だった。
「その写真……」
 腹の底から発せられた低い声で、はじめて沙希子が部屋に入ってきていたことに気づいた修一はとっさに手紙と写真を隠そうとしたが、既に遅かった。
「隠さなくったっていいわ……」
 妻の冷ややかな声音に、修一は覚悟を決めて立ち上がった。
 言いわけはできなかった。
 それ以前に、必要がなかった。
「すまない……」
 ただひとこと、修一は目の前に立つ妻に告げた。
「言いたいことは、それだけ?」
 研ぎ澄まされた刃物のように恐ろしく冷めた視線で妻に見つめられた修一は、言葉を失う。
「なんとか言ったらどうなの?」
 俯き手紙を握り締める夫に、沙希子はさらに言い寄った。
「子供を……引き取らせて欲しい」
 どんな滑稽な言いわけをするのだろうか。
 沙希子はじっと修一を見つめていたが、その口から発せられた言葉を聞く否や、怒りを通りこして笑いが込み上げたきた。
「子供を引き取るですって?」
「あぁ……」
「冗談じゃないわ。なんでこの家で、私が、あなたの子供を引き取らなきゃならないの。そこに写っている母親がいるじゃない!」
 引きつった表情のままに、修一を睨み据えて吐き捨てる。
「死んだよ……」
 沙希子の言葉に重なるようにして、修一は沈痛な面持ちで答えた。
 永遠に、この夫の心が自分に戻ることがないと悟った瞬間だった。
 ――きっとこの男は、私が死んでもなんとも思わないだろう。一生、死んだ女のことを想い続けるに違いない。
 沙希子の心には、そんな焦燥感がよぎった。
「頼む……この子には、もう私しかいないんだ……。どうか……引き取らせてくれ……」
 力なく沙希子の足元に崩れ落ちた修一は、祈るように頼み込んだ。
 何度も、何度も……声が枯れるまで……。
 ――情けない気持ち。
 そうとしか思えなかった。
 なにを言う気も起こらない。
 だが、この家に、この男が別の女に産ませた子供を入れさせるのだけは許せなかった。
 例えどんなに頼まれようと、泣かれようと、沙希子は認めなかった。
「あなたの実家にでも引き取ってもらったら?」
 一言そう告げると、沙希子は部屋から出て行った……。



 以来、交わす言葉の数も少なくなり、紙の上での夫婦という名目しか無くなった沙希子と修一だった。
 今日もいつもと変わらずに、必要なこと以外はなに一つ語ろうとしない妻に、修一は再び問い掛けた。
「瑛の話がなんなのか、聞いてるのかい?」
 しばしの沈黙の後、沙希子は小さくため息をついて呟いた。
「知らないわ……」
 恐ろしく重い空気の中、時間はゆっくりと過ぎていく。
 壁に掛けられた時計の針は、午後二時を指していた……。



next.....「君に声が届くとき(8)」





第7話をお届けいたしました。
今回の山場は、瑛の両親の過去の話でしょうか。
はじまりは見合いであったにしろ、沙希子は彼女なりに夫の修一を愛していました。
もちろん、間に生まれた瑛という一人息子も。
その夫の裏切りに、彼女のプライドは大きく傷つけられてしまったのです。

さて、この母親の沙希子さん、皆様の評判は大変よろしくありません(^^;
私は、結構好きだったりするのですが、書いている側が好きでも、読んでくださっている方には、やっぱり微妙なようです。
この回の話は、今後の「君声シリーズ」においても大きなポイントとなる箇所です。

ということで、含みのある言い方で恐縮ですが、
今回もここまでご覧いただき、どうもありがとうございました。


2004/1/28



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