日々忙しなく働く看護師たちが、少しの息抜きをしているナースステーションの片隅。
 アイボリー色の丸テーブルに置かれているのは、先ほど退院を済ませた患者の身内がお礼として持ってきたチョコレートケーキだ。
 看護師が三人集まれば、会話はもっぱら噂話か愚痴か恋話。
 切り分けたケーキをつついている彼女たちが今話題にしているのは、昨日付けで入院を強いられた二一六号室にいる麻澄のことだった。
「見た見た。あの高校生の子でしょ? めちゃくちゃ可愛い顔してた」
「お姉さんがまたかなりの美人でね。もう本当に羨ましい姉弟でさー」
 濃い目に入れられたブラックコーヒーを口にしながら、看護師の一人は大きなため息を漏らした。
「先輩、今更羨ましがったところでもう手遅れですって」
 笑いながらケーキを頬張って軽く冗談を言った本永は、さらにもう一つと箱に手を伸ばしかけていたが、その手を先輩看護師が軽く叩き落とす。
「そういうこと言うんだったら、あんたに麻澄くんの身の回りの看護は一切させないからねー」
「ええっ!? うそうそっ。先輩ってば冗談ですから! 本当に、ちょっと口が滑ったというか……あっ!」
「……ふーん」
 本永の不要な最後の言葉に、頬杖をついていた看護師の眉間にはさらなる皺が刻まれる。
 不毛な会話を続けながらもくつろいでいた彼女たちではあったが、束の間の休息の終わりを告げるナースコールが部屋中に響き渡った。
「ほら、早く出なさい!」
 促された本永は慌ててコーヒーを飲み干すと、壁際にある病室パネルを確認し、受話器の場所へと駆け寄った。
 備え付けのメモに患者が訴えている症状を書き連ねた本永は、受話器を置くと、椅子に腰掛けている看護師たちに症状の報告をし、そのまま急いで病室へと向かった。
 残った彼女らは、慌しく去っていった本永のカップと置かれていたケーキの箱を片付けにかかる。
 こういうふとしたときにこそ、暇な医者がふらりと姿を見せるものなのだ。
 やましいことをしているわけではないものの、やはり見つかると色々と言われてしまうのが常。
 もっとも彼女たちが手短に片付けを進める一番の理由は、自分たちの取り分が減るのが嫌という理由なのだが。
 小型冷蔵庫の奥深くにこっそりと箱を隠した看護師が冷蔵庫のドアを閉めたその直後、出入り口から彼女らを呼ぶ声が響いた。
「あら? 二人しかいないの?」
 女医の仁科と共に現れた看護師長は、ナースステーションの中を見回しながらそう言うと、人の少なさに驚いた声をあげた。
「ちょうど皆、出払ってしまって」
 自分たちの勘が見事に当たったことに苦笑しながら、二人は婦長の質問に答える。
 が、その視線は婦長を通り越し、その後ろにいる一人の男へと向けられたままだ。
「そうなの……。まあいいわ。あなたたちにだけでも紹介しておくわね。今日から二週間、外科の実習にやってきた宮園瑛さん。ここが最後の担当になるそうだから、よろしくね」
 仁科の言葉にならうように、一歩前に出た瑛は軽く頭を下げる。
「宮園です。本日からよろしくお願いします」
 耳をくすぐるような心地よい低い声音、真新しい白衣をきっちりと着こなしている姿、均整の取れた体躯に釣りあうような長身。
 そんな彼が彼女たちを魅了しているのは間違いなかった。
「は……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 昨日の麻澄に引き続き、今日はまた異なったタイプの美丈夫に来られてしまえば、両手を合わせて飛び跳ねてしまいたくもなるだろう。
 内心の嬉しさと動揺を隠しながら、彼女たちは瑛の言葉に続けて挨拶を交わした。
「他の皆にも、戻ってきたら伝えておいて頂戴。それじゃあ宮園くん、一通り病室や処置室を回ってきなさい。他の先生方にはちゃんと話が通っているから、気兼ねしなくていいのよ」
 看護師たちに出す指示と同じような感覚で言い渡された瑛は、仁科に軽く微笑を浮かべる。
「ありがとうございます。では、お先に失礼します」
 仁科、婦長、そして二人の看護師を残し、瑛はナースステーションを後にした。
 随分と頼りがいのある女医が自分の担当になったものだ……と、瑛は仁科の口調を思い出しながら口元を軽くつり上げた。
 どこか、昔の母に似ているな――。
 そう思い浮かべながら。



 平日の昼間ということもあり、どこの局のテレビ番組も興味を引くような内容のものを放送していない。
 テレビを見ることすら退屈に思った麻澄はつまらなさそうに電源を切ると、仰向けに寝転び天井を見上げた。
 天井に吊るされているカーテンレールは彼のいるベッドを取り囲むように囲っており、今はそのカーテンが半分ほど閉められている。
 身体を起こし、カーテンの端を掴んでそれを手前まで引いてしまえば、簡易とはいえ誰にも覗かれることのない個室が出来上がる。
 しかし麻澄にとってはその行動が一番の苦痛だった。
 カーテンを引くことではなく、個室を作ってまでしなければならない作業が。
「究極の選択だよな」
 唸り声を上げながら、麻澄は痛みの酷い右足を庇うように起き上がると、そっと室内を見回した。
 六人の相部屋の中に今は、ベッドの上で雑誌を読んでいる中年男性と、中天を通り過ぎた陽のやわらかな光を受けながら眠っている壮年の男性がいる。
「……っ」
 可能な限りすばやい動きでベッドを抜け出した麻澄は、壁伝いに両手を這わせながら、周囲を窺いつつ足を進めた。
 折れてはいない左足ではあるものの、しっかりと固定されているほどの怪我の状態であるだけに、体重がかかればかなりの痛みを伴う。
 右足に至っては言うまでもない痛みだ。
 入院をしてから三度目の道のり。
 たったこれだけの移動距離だというのに、今の麻澄にとっては途方もない距離のように感じてしまう。
「いったい、あと何回繰り返すんだよ」
 ともすれば亀よりも遅いのではと思えるほどのゆっくりとした足取りで進んでいた麻澄の目に、ようやく目的の場所が見えてきた。
 ――この角を曲がれば、あと五メートル!
 壁に這わせた手に力を込めて意気込んだ麻澄は、身体を支えながら角を曲がろうとしたが、ちょうど頭を覗かせた辺りで前方からやってくる白衣姿の医師を見つけ、とっさに顔を下に向けて俯いた。
「………………」
 そのまま通り過ぎてくれることを願いながら、麻澄はじっと息を殺したように壁に両手を張りつけたままの体制で身動きをせずに立っている。
 頼むから、気づくな!
 だが、曲がり角で壁側を向いたままじっと立ち止まっている人ほど不自然なものはない。
 むしろ動いていたほうが気にもとまらないはずだが、今の麻澄にはそこまで機敏な行動は取れるはずもなかった。 じっとしたままの麻澄の様子に気づいた医師は、麻澄の願いも虚しくその場で立ち止まる。
「あれ? 松葉杖は持っていないのかい?」 
 問い掛けた医師――正確には実習生である宮園瑛は、麻澄の不可解な行動に疑問を覚えたのか、間合いを詰めるようにして麻澄の側へ寄ると、その両脇を抱えるようにして寄りかかったままの壁から引き離した。
「って君、両足を怪我しているじゃないか」
 麻澄の足元に視線を落とした瑛は、真新しい包帯とテーピングに固定された両足を見て、驚きの声をあげた。
「こんな状態の怪我で歩き回るだなんて……。どこに行くつもりだったんだ?」
「ど、どこって……」
 咎められるであろうことなど当然覚悟していた麻澄ではあったが、想像通りの台詞を言われてしまい、乾いた笑いしか出てこない。
「どこに?」
 再度念を押すかのように問い詰められた麻澄は、気まずそうに視線を泳がせた。
 どうにもこうにも言い逃れは出来そうになかった。
 どうせ、同じ男だし。
 別に、悪いことをしているわけじゃないし。
 いや、やっぱり悪いか。
 ぐるぐると思いを巡らせたところでこの状況下から抜け出せるわけでもなく、麻澄は意を決して、だが小さな声で漏らした。
「……トイレ」
「ん?」
「だから、トイレに……行こうかと」
 声が聞き取れなかったのか、顔を近づけてくる瑛に対して顔を引きながら、麻澄は彼の背後にあるであろう見えないトイレの表示へと視線を向けた。
「君、両足を怪我しているんだろう? 看護師さんが部屋に準備しておいてくれなかったの?」
 瑛が言わんとしていることを瞬時に悟った麻澄は、慌てて言い返そうとしたが、一人勝手に納得をした瑛は曲がり角から顔を出し、通り過ぎてきたナースステーションに向かって看護師を呼ぶ声をあげようとした
 麻澄は慌てて瑛の白衣を掴むと、その言葉を制した。
「って、あるから!! ちゃんと部屋にあるんだってば!!」
「――あるって、尿瓶が?」
 もう少し言葉をオブラートにでも包め! と、内心毒づいていた麻澄だったが、今にも看護師を呼ぼうとしている瑛の前では、そんなことを呑気にしている場合ではなかった。
 何度も大きく首を縦に振り、瑛の言葉を肯定する。
「あるのに、なんでわざわざこんなところまで出歩いてくるんだい?」  
「な……なんでって。だって皆病室にいるんだよ!? あんなところで出来るわけないじゃんかっ!
 顔を赤くさせて声を荒げる麻澄に、瑛はなぜそのように大きな声を出すのか……麻澄が恥じる理由を理解することが出来ないままだ。
「そうか?」
 ただ用をたすくらいのことで、どうして目の前の少年がこうまでムキになるのかが分からないといった面持ちでいる。
「そうか? 今、そうかって言った!? 信じられない。じゃあ自分でしてみろよ! 皆がいる部屋でごそごそとさっ!!」
 この場所まで来るのがどれだけ大変なのか。
 それが分かるはずも無い相手に『そうか?』などという安易なことばで言い回されてしまたった麻澄は、屈辱と悔しさで一杯だった。
「そんな涙目になって怒らなくても……」
「あんたが失礼なこと言うからだろ! 別にトイレに行くくらいいいじゃんかっ」
「確かに、両足に怪我を負っているのでなければなんら問題はないけれど、残念なことに君の場合両足とも負傷している。だからこそ病室に尿瓶も置いてあるんだ。看護師さんにも言われただろう?」
 あきらかに幼い子供に言い聞かせるかのような物言いに、だが、間違ったことはなに一つないその言葉に、麻澄は返す言葉もなかった。
 顔を下に向けてしまった麻澄に、瑛は今一度注意を促した。
「医師や看護師の言うことは素直に聞き入れること。それが一番早く怪我を治す手段なんだ。分かるよな? でも、」
 瑛の言葉がおかしなところで途切れたことを気にかけた麻澄が顔をあげると、目の前には離れたにもかかわらず、いつのまに接近してきたのか、瑛の胸元が迫ってきていた。
「ちょ……っ、なんだよ」
 視界が白衣の白色に覆われたと思った瞬間、麻澄の身体は軽々と抱えられた瑛の腕の中に収まってしまう。
「なっ、なに!??」
 担がれながらも大きく身を捩り、瑛の背を叩きながら抗議の声をあげた。
「行くんだろう?」
 麻澄の言葉には耳も貸さぬまま、瑛はゆっくりとした足取りで歩き出す。
 どこに連れて行かれるのかも分からない麻澄は、オウム返しをしてしまうばかりだ。
「行く? どこにっ!?」
「トイレ」
 なぜ抱えあげられてトイレに連れて行かれるのか。
 どうしてあれほど行くなと言っていた、トイレに。
 麻澄の頭の中は、疑問符が飛びかうばかりでどうにかなってしまいそうである。
 動き回るのが良くないって言ったんだから、話の流れ的に、連れて行く場所は病室だろ!?
「お、下ろせってば! 大丈夫だから下ろしてって!!」
「こら、そんなところでこれ以上暴れるんじゃない。別に君が用を足すときに手伝ってやるわけじゃないんだから、恥ずかしがる必要もないだろ? 同じ男同士なんだ」
「そういう問題じゃない! 男のくせに、なんでこんな担がれなきゃなんないんだよっ!」
「照れない、照れない」
 お尻を数回はたかれたうえ、そのまま意気揚揚とトイレの中に入っていこうとする瑛に訴えたところで、すでに会話の根底が噛みあっていない二人だ。
 傍から見れば微笑ましい構図なのであろうが、麻澄にしてみれば迷惑なこと極まりない。
「照れてなんかないっ! いいから下ろせーー」
 廊下には、虚しい麻澄の叫び声。
 そして、偶然二人のやり取りを目撃していた本永の妖しげな眼差しがあるばかりだった。




next.....「Heartstrings(4)」





「Heartstrings」第三話をお届けいたしました。

約四ヶ月ぶりの更新となってますが……。
昔のこの作品を覚えていらっしゃる方には、ただの改稿かよ……と思われてる方も多いとは思うのですが、実は結構書き換えてます。
というか、七割は書き換え・書き増し・削除という感じですので、その辺りを気づいてやっていただけると、筆者としても嬉しい限りですが、どうなんでしょう。
今回のお話も、こんな展開ですが原稿用紙十枚を超えております。
うーむ、でもちっとも十枚の内容になってない気もしますが;

次回は、瑛と螢と麻澄の彼女の微妙な位置関係なんかを掘り下げていくエピソードです。
またこちらも、しばらくお待ちいただけたら、と思います。
春前にはお届けしたいなあ……(遅すぎ!)



2006/01/3



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