目の前の視界に広がるのは、白衣をまとった均整の取れた広い背中。
 その背中を、肩に担がれた麻澄は、瑛にしっかりと腰を抱えられたままの格好で、何度も叩いた。
「本当にっ、下ろせってば!」
 大きくもがきながらさらに力を入れて反抗してみるも、腕の力は緩みもしない。
「聞いてるのかよっ」
 廊下に響き渡るような麻澄の大声を受けながら、瑛はまるで幼子をあやすかのように身体を揺すると、背中で暴れている麻澄に病室の番号を尋ねる。
 文句を言ったところで自分を解放してもらえるわけではないと判断した麻澄は、瑛の言葉を無視すると、今度は真っ直ぐに口を閉じ、頑なに無視を決め込んだ。
「病室は?」
 そっぽを向いていた麻澄だったが、瑛はおかまいなく、返事をしない麻澄のお尻を軽く叩いた。
 嫌な感触に身体を強張らせ、まるで相手にされていないことに怒りを覚えながら右手をきつく握り締める麻澄。
 ――人のこといったいなんだと思ってんだ! 医者だからって!
「二一六号室っ!」
 瑛の一方的な理不尽さに腹を立てながらも乱暴に言い捨てると、ぐったりと瑛に身体を預けてしまった。
 最悪だ。
 オレはただトイレに行きたかっただけなのに!
 通り過ぎるリノリウムの床を見つめながら、麻澄は自分の取った行動を心底悔やんだ。
 瑛と遭遇してしまったことは、まだ許せる。
 強引にトイレに連れて行かれてしまったことも、我慢しよう。
 しかし、トイレに着くや否やズボンを脱がされた挙句、穿いていたパンツの柄まで指摘されたのだから堪らない。
 それも、姉が出先で選んで買ってきたと言う、およそ麻澄の好みとは合わないような可愛らしい絵柄のものを。
 別にオレだって好きでこんな柄のを穿いてるわけじゃない!!
 恥ずかしさと屈辱と、苛立ちと。
 麻澄自身にも分からないほど混乱したさまざまな感情が脳裏を巡っていた。
 なんでもいいから、早く部屋に着かないのか……。
 半ばあきらめた気分で、目の前の真っ白背中に視線を向ける。
 瑛の足が一歩進むたびに、微かながらも香水の匂いが鼻元をくすぐった。
 癖のない良い匂いだけれど、どこか危険な感じが漂う香り。
 それは、掴みどころのないこの男によく似合っているような気もして。
 ――良い匂いだなんて、なに考えてるんだ、オレ。
 痛む足のことに意識を回すようにして、急に湧き出たおかしな考えを麻澄は葬り去るように、大きく頭を振った。
 でもやっぱり、良い匂いだ。
 香水に罪はないんだし……。
 一度芽を出してしまった思いを払拭することは、なかなか難しいようだった。 




 静まり返った病室の中、もぬけの殻となっているベッドを見つめているのは、一人の少年だ。
 部屋の中には、麻澄はもちろんのこと同部屋の他の患者たちの姿もなかった。
「麻澄ってば、どこに行っちゃったんだろ」
 健太から預かった紙袋と、近くの花屋で買ったチューリップとかすみ草で作られた小さな花束を抱えたまま、荻窪螢は首を軽く傾げていた。
 あの状態じゃ、そう出歩けるはずもないのに。
 疑問に思いながらも、手にしていた花を花瓶に移しかえるために部屋を後にする。
「今日なんか検査があるって言ってたっけ?」
 独り言を呟きながら、手洗い場へと向かった。


 ふわりと優しく漂う花の香りを嗅ぎながら再び病室へと戻った螢は、麻澄の名前が書かれているベッドに腰掛けている少女の姿を見つけると、はたと足を止めた。
「……未樹ちゃん。久しぶり」
「あ、荻窪くん。来てたんだ?」
 微笑み返す未樹の脇にある簡素なテーブルに花瓶を置くと、後の問いには答えぬまま彼女と向かい合うようにして椅子に腰掛けた。
「麻澄のお見舞い?」
 ややして沈黙を破るように、未樹の顔を見る。
「麻澄のお見舞い?」
「うん」
 肩より少し短めの髪を指で気にしながら螢の問いに答えている未樹は、麻澄が高校に入学してから付合いはじめた彼女だ。
 それなりの美人、と、一目見た人の多くが言いそうな目鼻立ちの整った面立ちに、程よい白さの肌。
 自分の可愛さを分かっていて、それを前面に出さずに少しずつ見せていくようなタイプの人間だ。
 螢はそんな未樹のことを好きになれないでいた。
 麻澄と付き合い始める以前から、螢は未樹の色々な噂を耳にしていたのだ。
 それでも未樹に一途に言い寄られた麻澄は強引に断ることも出来ず、結局二人は付き合うことになった。
 螢は何度か麻澄にこのことを話したが、『前のことなんだから』と、そう返すばかりだった。
「ねえ、麻澄は?」
 チューリップの花びらを触りながら、未樹もまたこの場にいない麻澄を疑問に思ったようだ。
「ボクが来たときにはもういなかったんだよね」
「ふうん」
 小さく不満の声を漏らした未樹はベッドから降りると、患者のいない室内を伺うように歩き出した。
 四人部屋のそれぞれのベッドの上には、読み途中の本や脱ぎ散らかされたままのパジャマやらが散乱している。
 一周し終えて再び麻澄のベッドへと視線を戻した未樹は、螢の手元にある茶色の紙袋に気がついたようだった。
「その袋、なに?」
 螢が自分に対してあまり好意を抱いていないということに気づいていた未樹は、あえて螢と関わりを持とうとはしなかったのだが、二人きりで話すこともない今、とりあえず視界に入ったものに関心を寄せるほかなかった。
 興味深そうな顔をして近寄ってくる未樹に気づいた螢は立ち上がり、袋に届きそうになっていた未樹の指先から隠すように後ろ手にする。
「別に……大した物じゃないから」
 少しあわてた様子の螢を見て、未樹はいぶかしげな眼差しを送った。
「大した物じゃないんだったら、別にいいじゃない」
 ついっと間合いを詰めてくる未樹から逃れるように、螢は壁伝いに移動をする。
「ほ、本当に別になんでもないから気にしないで」
 壁に張り付きながらなんとか未樹の手からから逃れようとしていた螢だったが、ふいに耳に入ってきた声を聞くと、反射的に扉の方に顔を向けた。
「もう……っ! いい加減にしろよっ!!」
 頬を高潮させながら大きな声を上げている麻澄の姿を見た瞬間、螢の背にひやりと冷たいものが走る。
 ――麻澄?
 日頃感情をあまり表に出すことをしないからこそ、このような麻澄の姿は珍しい。
 螢は目の前にいる未樹を見た。
 すると彼女もまた、珍しいものを見るかのようにして麻澄を見つめていた。
 そしてさらに視線を上げ、麻澄を抱えているだろう人物にまで目を遣る。
 未樹の顔色が微かに変わった瞬間を、螢は見逃さなかった。
 こういった類の勘は、当たって欲しくないと思っているほど現実のものになってしまうことが多い。
 また一つ、螢にとって頭痛の種になる要素が現れそうだった。
「はい、到着」
 暴れる麻澄を静かにベッドの上に下ろした瑛は、自分を見つめる二つの視線に気づいて彼らの方を向いた。
「彼の友達?」
「……はい」
「そうです」
 螢は注意深く瑛の姿や様子を観察した。
 未樹もまた、違った意味で瑛の様子を伺っている。
「彼がベッドから抜け出さないように、しっかりと見ていてやって」
 今度は強引にスリッパを脱がせ、なにか文句を言おうとしていた麻澄の頭に布団をかぶせると、有無を言わせぬように中に押し込めてしまう。
「僕は実習生の宮園瑛。今日からしばらくの間、この科に配置になったんだ」
 もがく麻澄を尻目に、整った顔に人当たりのよさそうな笑みを浮かべ、螢に向かって自己紹介をはじめる。
 隣の未樹にはなにも言わなかったが、同じように微笑んだ。
「荻窪螢です」
「早坂未樹です。よろしくお願いします」
 ……なにが、『よろしくお願いします』だよ。
 未樹の言葉に、螢は内心毒づいた。
「用はもう済んだだろっ! さっさと仕事に戻れよ!!」
 三人の会話を聞きながら、ようやく声を上げることに成功した麻澄は、布団の中から不愉快そうに口を挟む。
「麻澄、そんな言い方しなくったっていいじゃない。麻澄が抜け出したからこんな風になったわけでしょ?」
 とがめるように言う未樹に対し、今度は螢が同じようにして口を挟んだ。
「未樹ちゃんもういいじゃん。麻澄もこうして戻ってきたんだし」
 麻澄をかばうように言った螢だったが、今度はこの様子を楽しそうに見つめている瑛に向き直る。
「彼のことはボクがちゃんと見てますから、どうぞ先生はお仕事にお戻りください。ご心配なく」
「そうだね。どうやら嫌われてしまったみたいだし」
 肩をすくめた瑛は、布団のふくらみに、そして自分に険しいまなざしを投げてくる少年を交互に見つめた。
「それじゃ」
 軽く麻澄がいるであろう布団の中央を叩いた瑛は、新しいからかい相手を見つけたことを嬉しく思いながら、病室を後にした。



 病室に残された三人は、それぞれの思惑で心が揺れていた。
 初対面の相手に軽々と抱え上げられたうえ、あれこれと言われては笑われた麻澄は、まるで子供扱いしかしていない瑛の態度に怒り心頭だ。
 未樹は、あの長身と言葉の端々でふいに覗いた危うい雰囲気、それに頭の中に響く程よい低さの美声が気になって仕方がない。
 そして、螢。
 どういった敬意で麻澄と知り合ったのかは知らないが、麻澄の頑なな態度が、言わずとも二人の間になにかがあったことを如実に物語っていた。
 人当たりが良いことで有名な麻澄である。
 誰かを強く拒絶するような言葉を聞いたことは、螢が知る限りでは一度たりともなかった。
 沈黙の続いた部屋の中、最初に口を開いたのは麻澄だった。
「せっかく来てくれたのに悪いけど、今日はもう寝たいんだ」
 小さく布団から頭を出して、螢と未樹がいるほうへと頭を向ける。
 本人にこう言われてしまえば、見舞いに来ている側としても頑として居座ることなど出来るはずがない。
 螢は未樹に先に出て行くように促すと、そっと布団をまくり麻澄の耳元でささやいた。
「あのね、これ白崎がどうしても麻澄に渡してくれって……」
 麻澄に見せるまでもなく、勢いよく押し込んでしまう。
「なんでこんなところに?」
 腹部に置かれた紙袋の重みを受けながら、麻澄はその袋を開けようと手を伸ばした。
「ま、まあいいからっ。今はとりあえず休んでさ! こんなのいつだっていいんだし!!」
 ――むしろこんなのを今ここで開けられたら、ボクだって困るよ!
 慌てて麻澄の手を紙袋から引き剥がして、布団から引っ張り出した。
「一眠りして落ち着いてから、開けてごらんよ」
「……? 分かった」
 なにやら様子がおかしい螢のことが気にかかったが、麻澄は言われるがままに大人しく目をつむった。
「じゃ、また明日ね」
 名残惜しそうに、目を閉じている麻澄を見つめていた螢だったが、大きく一度深呼吸をして廊下に出る。
 そこには、壁に背を預けて螢を伺っている未樹がいた。
 このまま一緒に帰らないといけないかと思うと、ずしりと気分が重くなる。
 悟られぬよう表面では笑顔をつくろいながら、螢は未樹の隣に足を進めた。



 あのとき、足元にさえ注意を払っていれば、こんな場所に閉じ込められなくてすんだのに。
 あんな奴に、嫌味言われたり笑われたりしないですんだのに。
 消灯時間となった二十二時を過ぎても、麻澄は布団の中で目を覚ましたまま、悶々と自分の行動を悔やんでいた。
 すっかり自分の体温で温かくなってしまった布団にもぐりこみながら、不甲斐なさにため息をつく。
 学校に行けば大勢の友人がいて。
 授業は大半が退屈だけれど、放課後の部活は時間が経つのを忘れてしまうほどに楽しく充実していて。
 それなのに自分は今、このベッドの中でじっとしていることしか出来ないというもどかしさが、麻澄をさらに追い立てていた。
 何十回目かのため息とともに寝返りを打つと、ベッドの脇から音を立てて紙袋が落下した。
 昼間、螢が麻澄にと持ってきた、健太からの預かり物が入った袋だ。
 暗がりの中、手だけを伸ばしてそれを拾い上げると、静かに音を立てないようにして中を開いた。
「なんだ、これ?」
 幾分厚みのある三冊の冊子を取り出し、目を凝らしながら月明かりを頼りに表紙を注視する。
 わずかに読み取れた文字をはんすうし、中身の正体を知った麻澄は硬直した。

『激撮美女図鑑』
『月刊らぶみっくす』
『人妻の憂い』

 ――――!?????

 どれもこれも、あからさまなほどに胸を強調したり露出した写真にイラストが大きく載っており、アオリ文句には露骨な単語があれこれと書かれている。
 それらはいわゆる、成人指定と言われる類の本たちだった。
 健太の奴、なに考えてんだよっ!!
 ページを開くまでもなく、噴出す冷汗を拭う間も惜しんで、物凄い勢いで袋の中にしまい込んだ。
 消灯から大分時間がたった今なら、誰も起きていないだろうし、仮にもベッドはカーテンで仕切られており個室らしくなっているのだから、誰かに見られるわけではないのだが、麻澄は周囲を落ち着きなく見渡した。
 やましい気持ちがあると、なんでもない音――そう、風で動くカーテンの衣擦れの音でさえも反応をしてしまうものだ。
 明日、絶対に文句言ってやる!!
 いくらなんでも一週間くらい我慢できるに決まってるじゃんかっ!!
 枕の下に袋を押し込んでしまうと、しっかりと頭でそれを押さえつけ、麻澄は再び横になった。

 道理で帰り際の螢の様子がよそよそしかったはずだ。
 きっと螢は散々嫌がったんだろうな、これ持ってくるの。
 漫才のようにまた二人で言い合っていたんだろうと、見たわけではないが彼らのやりとりを想像し、麻澄は堪らず布団の中で声を殺しながら笑い転げた。
 いかにも健太らしい見舞い品だと、思いながら。
 今このときばかりは、憂いの原因でもあったはずの瑛の面影は全くちらついていなかった。



next..... 「Heartstrings(5)」





「Heartstrings」第四話をお届けいたしました。

新しい登場人物として、現在の麻澄の彼女の「早坂未樹」が登場しました。
いやー、なんか書いてて嫌な女って感じがすんごいするんですけれど、私の文面から伝わっているんでしょうかね(^^;
筆者の愛情を少しでも受けれないキャラは、なんか扱いも酷い感じです(笑)

瑛と麻澄の出会いがあった前回からの続きでしたが、今このときは麻澄の中での瑛の株は最高潮に下落中です。
さて、これから瑛の挽回はあるのでしょうか?

麻澄を誰よりも大事に思っている螢の行動にも注目していただければ……と思います。

それでは、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
次回も今回同様のキャラクターたちが出てくる話となる予定です。
次あたりからはようやく改稿ではなくて書き下ろしになるかな? というところで。



2006/07/13



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