第三処置室と書かれたプレートが貼られている部屋の奥。
 青磁色の丸椅子に腰掛けている麻澄の前でかがんだ看護師は、手際よく麻澄のジャージを膝までまくりあげた。
「もうすぐ担当の先生が来るから、しばらくここで待っていてね」
 ナース服の上には定番の紺色のカーディガン。
 かぶっている帽子がまだしっくりと馴染んでいない、初々しさを残した看護師は、そう告げると足早に処置室から出て行った。
「永瀬くん、大丈夫?」
 入れ違うように、試合会場から慌てて後を追ってきた健太と、副顧問の神山が処置室へとやってきた。
「すみません……」
 顔を覗き込むようにして話しかけてくる神山に、麻澄の口数はいつにも増して少なくなってしまう。
 気にするな、と励ましの意味をこめて、健太は肩を落としたままの麻澄の背中を軽く叩いた。
「そんなこと気にしないでいいのよ。それより、お家の方にご連絡しないといけないんだけれど、どなたか自宅にいるかしら?」
「あ……。多分、母ならいると」
「そう。じゃあ先生ちょっと電話してくるから。白崎くん、ここお願いね」
 忙しなく言って鞄から手帳を取りだした神山は、ページをめくりながら走り去っていく。
 彼女の足音が処置室から遠ざかりきる前に、廊下に派手な金属音が響いた。
「す、すっ、すみませんっ!!」
 下を向いて走っていた神山が、先ほどの看護師と派手にぶつかったのだ。
 お互い不慣れな部分が見事に重なりあっているようである。
 声を裏返して謝る神山の声を聞いて、健太は肩をすくめる。
「お前の後を追って病院まで来るときな、神山のやつめちゃくちゃ慌てててなんども信号無視しそうになってよ。危うくこっちまで病院送りになるところだったんだぜ。思い出しただけで身震いがする」
 愚痴をもらしながら廊下を見遣る健太と同じように、麻澄もそちらに目を向けた。
「新任だからね。それより健太……わざわざありがとう」
「だーから、もう気にすんなって言ってんだろ! これが最後の試合じゃねえんだからさ」
「うん」
 身体を屈めて右足へと手を伸ばした麻澄は、痛む箇所を確認するように触れていった。
 右足は完全に折れており、左足もそして右手も、自分が思っているようには動かせない。
 項垂れてしまった麻澄の元に、白衣をまとった一人の医師が姿を見せる。
 わずかに色の抜かれた髪は後ろで一つにまとめられていて、すっきりとした輪郭をより強調しているかのようだった。
「永瀬麻澄くんね?」
 手元のカルテと麻澄の顔を見比べた女医は、確認をするように尋ねた。
「はい」
「よし。じゃあ早速だけれど、さっき撮ったレントゲンを見てもらうわね」
 部屋の明かりが落とされ、定位置にセットをされた写真の背面で、蛍光灯の灯りがつけられる。
 浮かび上がったモノクロに近い色をした写真に写されている画に対し、人体の骨格などの知識を持ち合わせていない麻澄と健太は、医者の解説がなければどこが損傷しているのかを見つけることができなかった。
「右腓骨(ひこつ)の骨折と、左足首、右手首の捻挫ね。左足首の捻挫が手よりも酷いから、二週間くらいは固定しておこうか。右手もテーピングで動かせないよう固定するけど、こっちは一週間もすれば外せるでしょう。で……右足。全治一ヶ月ってとこね。綺麗に折れちゃってるからくっつくのも早いだろうから安心していいわよ。大丈夫! 腓骨なんて折れたって大したことないから」
 勢いよく症状を羅列された麻澄は、ただ頷くばかりである。
「とりあえず、入院ね」
 病状を詳しく説明されていたはずが、突然告げられた言葉に耳を疑った麻澄は、思わず間の抜けた声をあげた。
「は?」
「入院。四、五日程度の検査入院だと思いなさい。大丈夫、恐ろしい手術するわけじゃないんだから」
 男の医師が多い社会のなかで、しっかりと仕事をやり抜いているだけのことはある。
 有無を言わせぬ説得力のある話に気が抜けそうになっていた麻澄は、慌てて無事な左手で女医の白衣を掴んだ。
「ちょっ、ちょっと待って先生! オレ、入院なんてしなくても大丈夫ですからっ!」
 たかが骨折をしたくらいで入院をするなど、考えてもいなかった麻澄である。
 焦りを含んだ声で考え直してくれるように言うが、女医は軽く首を振るだけだ。
「駄目よ。医者の命令なんだから言うことを素直に聞きなさい」
 迷うことなく再度入院を言い渡されてしまった麻澄は、口唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
「それにしても転んだくらいで腓骨を折るなんて珍しいわね。ここの骨はね、多くの人はバイクの転倒事故なんかで折るのよ。もしかして、転んだときになにかを下敷きにした?」
 強引に話題を変えるかのようにレントゲンに手を伸ばした女医は、綺麗に折れてしまった箇所を見つめて小首をかしげた。
「テニスのラケットを引っ掛けてしまって……」
「なるほど。骨折の原因はそれね」
 納得した女医が背面の灯りを消すと、時を同じくして手元にあった机上の電話が電子音を響かせた。
 白く細長い綺麗な指先が、受話器を掴み上げる。
「はい、第三処置室」
『先生。患者さんのご家族の方がいらしたんですけれど、お通ししてもよろしいでしょうか?』
「構わないわ。そのままお連れして頂戴」
 受話器を元の場所に戻すと、再び女医は麻澄のほうへ向き直った。
「お家の方がいらしたそうよ。もうすぐここに来るわ」
「はあ、そうですか……」
 心配性な母親のことを思うと、麻澄は気が気でなかった。
 大方、「麻澄ちゃん! 怪我をして病院に運ばれたって、いったいどうしたの!?」と、叫びながら入ってくるに違いないのだ。
 高校生にもなった自分を、未だに“麻澄ちゃん”などと呼ぶことでさえ気恥ずかしいというのに、過保護すぎるところもさらなる拍車をかけている。
 これから起こるであろうことを予測してしまい、軽い眩暈を覚えてしまう麻澄だ。
 そんな麻澄の憂いをさらに深くするように、ノックの音が響く。
 降ってくるはずの言葉に身を硬くした麻澄の目に、右側にスライドされたドアの向こうから一人の女が姿を見せた。
 麻澄に良く似た薄茶色の髪を背中に少しかかる辺りまで伸ばし、濃紺色のデニムパンツに、レースの重なったレイヤードブラウスに身を包んだ女を見た麻澄は、思わず大きな声をあげた。
「ね、姉さんっ!?」
 その言葉に驚いた健太は、同じように麻澄の視線の先にいる人物に目をやった。
 白い肌に映える自然な化粧に、口唇の艶やかな薄桜色。
 はじめて麻澄を見たときのような奇妙な昂揚感が、健太を襲った。
 健太がそんな思いを抱いているなど気づいてもいない麻澄の姉は、大声を出した弟を諭す言葉をかけながら、麻澄の腰かけている椅子の隣へとやってくると、向かいの椅子に座る女医に軽く会釈をする。
「はじめまして、姉の永瀬実咲です。弟がご迷惑をおかけしているようで、申し訳ありません」
「担当医の仁科です」
 当り障りのない挨拶を交わすと、仁科はすぐに麻澄の怪我の状態を説明しはじめた。
「先ほど弟さんにはお話したのですが、右足の腓骨骨折と、左足・右手首の捻挫です」
 再度茶封筒から取り出したレントゲン写真をセットをすると、実咲に対して先ほどと同じことを語った。
「――で、今日から四、五日入院をしていただきたいのですが」
「入院、ですか?」
 実咲も麻澄同様に、骨折程度で入院を言い渡されるとは思っていなかっただけに、仁科の提案に疑問を抱いた。
「はい」
「どこか……おかしなところでもあったんですか?」
 実咲もまた、先ほどの麻澄たちのように神妙な顔つきでじっと横のレントゲン写真を見つめていたが、素人目でみたところで理解が出来るはずもなかった。
 仁科は実咲の言葉を否定するかのように首を振ると、笑って麻澄と健太、最後に実咲へと視線を戻した。
「検査入院ですよ。ご心配なさらないでください」
「そうですか……」
 肩の力を抜いた実咲は、ようやくほっとした面持ちになると、隣に座る麻澄の頭に手を置いた。
「まったく。お母さんがここに最初に来ていなくてよかったわ。大丈夫なの、麻澄?」
 麻澄が悶々と思っていたのと同じように、実咲も母親の性格を理解しきっているせいか、自分が最初にこの場に来れたことに安堵の息をもらす。
「平気だよ」
 実咲の心配をよそに、唯一自由の利く無事な左手を大きく回して、元気な返事をする麻澄だ。
「じゃあ、元気な麻澄くんは入院の準備ね。本永さん、左足と右手首も同じように固定しておいて頂戴。お姉さまはこちらにいらしてください。入院手続きのご説明をいたしますので」
 次々と指示を出した仁科は、実咲とともに処置室を後にする。
 一方、麻澄たちが色々な説明を受けている間に必要なものをしっかりと準備し終えていた本永と呼ばれた先ほどの新人らしき看護師は、仁科の指示どおりの処置をすべく麻澄の前に先ほどと同じように屈みこんだ。
「さ。じゃあ、固定するからね」 
 左足首を掴まれた麻澄は、患部を固定するためにとはいえ痛む部分を強制的に伸ばされ、堪らず声を上げた。
「っ……!!」
「はーい、我慢してね」
「痛……いっ!」
「痛くない、痛くなーい」
 嘘つけっ!! と、反抗しようとした麻澄であったが、子供をあやすかのような口調とは裏腹に笑顔で患部を伸ばしながら固定される痛みから、これ以上文句を言うこともできなかった。
 足を抱えられている麻澄を背後から見つめていた健太は一人、『あんな美人の姉貴と医者と、看護師に囲まれて入院生活が送れるなんて、羨ましいヤツだ』などと、麻澄の苦悶をよそに呑気なことを考えていた。
 麻澄に知られでもしたら、さぞひんしゅくを買うであろうことは確実だった。


 気づけばここにいた。
 そう言ってしまってもおかしくないほどに、ほんの数時間前までは試合会場にいたはずだったが、今は病院のベッドに寝かされている。
 朝、家を出たときには想像さえもしていなかった今の状態に、麻澄は改めて気を落としてしまう。
「はい、これ」
 沈んだままでいる麻澄の元に副顧問の神山と話を終えた実咲は、戻るなり一枚のカードを手渡した。
「なに?」
 麻澄の手に収まっているものはテレフォンカードのようなもので、裏面にはテレビカードと記されていた。
「テレビカード? なんに使うの?」
 聞きなれない名のカードをじっと見つめる麻澄に、実咲は先ほど購入した機械に書かれていた内容と同じことを解説する。
「そこにテレビがあるでしょう? 見るときにはこのカードを入れるんですって。それ一枚で二十時間見れるらしいわよ」
「えー。テレビ見んのに金とるの? ただじゃないんだ」
「ホテルじゃないんだから、そんなにサービスがいいわけないでしょう? 本当にもう、子供なんだから」
 いつまでたっても子供っぽい発想が抜けない年の離れた弟に、実咲は苦笑いを浮かべた。
 麻澄が生まれた頃から進んで面倒を見てきた実咲にしてみれば、弟というよりも自分の子供に近いような感覚さえ持ってしまうほど、麻澄が可愛くて仕方がないほどなのである。
 成長してくるにつれて、自分に似てくるのが嬉しくてたまらない実咲だ。
「お姉ちゃんは、家に着替えとか入用なものを取りに行ってくるわね。なにか欲しいものはある?」
「うーん。漫画が欲しい! なんでもいいから」
「はいはい。お姉ちゃんが戻ってくるまで、大人しくしていなさいよ?」
 先ほどまでの落ち込んだ雰囲気はどこへやら。
 怪我の状態とは反対に、元気に答える自慢の弟の髪を優しく一撫でして微笑んだ実咲は、また父親に『実咲も母さんと同じで、麻澄を甘やかしすぎだぞ』と怒られてしまうな、と思いながら部屋を後にした。


 実咲がつけていた甘い香水の香りがかすかに残る病室には、麻澄以外の人の姿はなかった。
 同室の患者たちは皆出払っているせいか、物音一つしない。
 廊下を歩く人の話し声だけが、時おり麻澄の耳に届くだけだった。
 処置室で患部の固定を終えた麻澄を見届けた健太は、神山とともに一度試合会場へと戻ってしまっていたため、話し相手もいない。
 膝下からギプスで固定されている右足を重く感じながら、人気のない部屋を見渡した麻澄は、四、五日とはいえこの閉鎖された空間に閉じ込められることを思い、大きなため息をもらした。
「なにやってるんだか、オレ……」
 そんな自嘲的な言葉を投げかける麻澄の耳に、聞き覚えのある高めの声が飛び込んできた。
 背中を起こして外の様子を窺う麻澄の前に、息を切らせながら一人の少年が勢いよく走り寄る。
「麻澄っ! 怪我したって大丈夫なのっ!??」
 未だに幼さを残した面立ちをした少年、荻窪螢(16)は、ベッドの横に両手をつくと、乗り出すようにして麻澄に近づき、怪我の容態を気に病んだ。
 昔から人一倍、自分のことを気にしてくれるこの小柄な少年の心配振りに、麻澄は嬉しくもありまた恥ずかしさも含んだ笑いを浮かべる。
「心配性だなあ、螢は。学校どうしたんだよ」
「お前が入院することになったってメール送ったら、荻窪のヤツ血相変えて病院の場所を教えろって電話してきやがって。もううるさいのなんの……」
 麻澄の問いかけに答えたのは、先ほど試合会場に戻ったはずの健太だった。
 半ば強引に連行させられてきたのだろう。
 口調には幾分、刺々しさが含まれている。
「だって心配じゃんか!」
 背後に立つ健太を睨みつけるようにしながら、螢は口を尖らせる。
「入院って言ったって、一週間もいないんだぜ? 大丈夫だよな?」
「あっそ、じゃあ白崎が入院したって絶対に見舞いになんか来てやらないからね!!」
 怪我人の麻澄を尻目に、またしても仲が今ひとつ良くない二人の口論がはじまる。
 一気に騒がしくなった病室に、廊下を通りかかった本永が顔を覗かせた。
「あらあら、随分とにぎやかね。若い子は羨ましいわ」
「なに言ってんすか。本永さんこそ美人で初々しくて、素敵っすよ」
 鼻の下を伸ばしながら本永の胸元から上を見つめ、調子のいいことを言っている健太の足の甲を、螢が踵で思い切り踏みつけた。
「ってぇ!!」
 大げさに飛び上がった健太は、本永から視線を戻すと螢を睨みつけ、怒鳴り声を上げた。
「おい! いきなりなにすんだよっ!」
「ふんっ。麻澄がこんなに痛そうな怪我をしているってときに、そんな馬鹿なこと言ってるからだよ!」
 言葉と共に明後日の方向を向いてしまう螢につっかかるように、健太は間合いを詰めにじり寄る。
 寄ると触ると喧嘩ばかりしている二人を前に、麻澄のため息はさらに大きさを増してしまった。
 見舞いに来てくれるのは嬉しいけれど、頼むから静かにしろってば。
 そうは思っても、たいがい揉めごとの原因が麻澄にある手前、なかなか口に出せないもどかしさ。
 実咲が早く戻ってきてくれることだけを願って、麻澄は二人の口喧嘩を見つめていたのだった。



next.....「Heartstrings(3)」





「Heartstrings」第二話をお届けいたしました。

……長いっ。
改稿してるとどんどん、描写的な台詞が増えること増えること。
この話だけで軽く原稿用紙十枚超えております。
肝心の瑛でさえ、まだ登場していないというのに(^^;;

今回のお話は、螢と健太の力関係の描写が一番メインですかね。
あと、実咲の麻澄に対する母性愛に近い愛情というのも、前より一歩踏み込んで書いてみました。

次回は、いよいよ彼が登場予定です。
できるだけ早くお届けしたいとは思っておりますので、しばらくお待ち頂けると幸いです。
では、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。


2005/09/9



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