打ち放されたコンクリート壁に無造作に打ちつけられている窓が一つ。
 二本の蛍光灯がうっすらと室内を照らしているその中で、試合を目前に控えた選手たちは着替えを済ませ、灰色のスピーカーから流れる試合開始や試合結果のアナウンスに耳を傾けていた。
「Dコート第三試合、月野・大野ペア、坂下・中迫ペアは至急コートに集合してください。繰り返します。Dコート……」
「なあ永瀬、俺たち今日最後の試合だぜ? いくらシード貰えたからって、開会式から六時間も待たせるなんてよ」
 簡易ベンチに腰かけ、ひんやりと一定の温度を保ち続ける壁に背中を預けながら退屈そうに声をあげているのは、ダブルスで永瀬麻澄の(16)ペアを組んでいる白崎健太(16)である。
 短く刈り上げた髪に、日に焼けた浅黒い肌が印象的な、典型的なスポーツ少年だ。
 中学時代はバスケットに情熱を捧げ続けていた健太だが、中学三年の夏、ソフトテニスの試合会場になっていたコートの側を横切ったときに目にしたゲームに、全てを奪われた。
 ――ゲームを行っていたのは、他でもない、麻澄だった。


 ベースラインを軸として前後左右へと全力で走り、軽やかな音を立ててすばやく返球をする一人の少年。
 ネット前で相手の様子をうかがっている少年とも、示し合わせたかのように息があっている。
 緩急をつけたボールさばきで、見事なまでに相手側のペースを乱していた。
「すっげえ!!」
 時間が過ぎていくことすら気づかぬまま、健太は身動き一つせずにコート上の試合に魅入っていた。
 その横では、女子ダブルスの試合を終えた二人の少女が首からタオルをさげ、フェンスの向こうの試合を見つめながら話をはじめた。
「やっぱり永瀬くんと山室くんって凄いよねー」
「おまけに二人ともめちゃくちゃ格好いいし」
 こくこくと大きくうなずきあいながら熱を帯びた声で語りあう少女たちの会話は、なおも続いている。
「高校行っても、テニス続けるのかなー?」
「洸星の特待推薦枠に決定したって、この前顧問たちが話してたよ」
「ホントに!? あーん、あたしも行きたいっ洸星高校ー。でも無理だよねえ、あんな有名校」
「でも、永瀬くんだけって話だったけれどね」
「え? 山室くんは一緒じゃないんだ。意外ー」
『山室? 永瀬?? あの後ろの奴はどっちなんだ?』
 静かに、しかし激しく続くラリーを凝視してしまう一方で、健太の頭にはさまざまな思いが渦巻いていた。
 ――自分も、あの中に入りゲームをしてみたい。
 中でもその思いがより強く、健太を支配する。
「あのさ、後ろで打ってる奴の名前、教えてくれるか?」
 会話に割り込むように入ってきた健太に驚いた少女たちであったが、すぐに笑顔をとり戻して健太に詳しく説明をする。
「後ろを守っているのは後衛って言ってね、彼は永瀬麻澄くん。前にいるのは前衛の山室彬くんだよ」
「永瀬、麻澄……か。悪い、ありがとうな!」
 そう言って金網にかけていた指を外すと、足早に少女たちのいた場所から立ち去り、フェンス越しにコートを半周すると、出入り口をふさぐように立ちはだかった。
「あの人、誰ー?」
「さ、さあ……」
 妙に力の入った観戦者だと不思議に思った少女たちは、健太に聞こえないのをいいことに本音を口に出してしまう。
「まさか、永瀬くん狙いとか言うんじゃないでしょうねーっ! 永瀬くんには山室くんがいるんだから、邪魔しちゃ駄目なのよっ!」
「はあ? あんたなに言ってんのよ」
 変な方面の話で力説する隣の少女を見て、怪訝そうな面持ちになるもう一人の少女。
「あたしの夢を、壊さないでーっ。君は好みじゃない!」
「……はいはい、勝手に言ってなさい」
 不毛な少女の訴えの向こうでは、絶妙なボレーで相手側の隙をついた彬のプレイによって、ずれ込んでいた決勝戦にようやく終止符が打たれたところだった。
「ゲーム終了。ファイナルゲームカウント7-3で、永瀬・山室ペアの優勝です」
 審判の声が高らかに響き渡ると、いっせいにギャラリーが色めきたった。
 歓声の中心で、感極まった麻澄は思わず彬に飛びつく。
「優勝だよ、オレたちっ!」
「ああ。やったな、麻澄っ」
 瞬間、奇妙な黄色の悲鳴が響き渡ったことは言うまでもない。
 そんなさまざまな思惑が混ざり合う声援の中、挨拶を終えた麻澄と彬はコートから出ようとベンチにある荷物を片づけはじめていた。
 手元のバッグへと手を伸ばした麻澄の前に、黒い人型の影が立ちはだかる。
 つられて視線を上げた麻澄の前には、ちゃっかりコート内に忍びこんだ健太がいた。
「俺と一緒に、テニスをしてくれないか!」
 突拍子のない言葉と裏腹に、健太の眼差しは真剣そのものだ。
 しかし、顔も名前も知らぬ少年に突然熱烈な勧誘を受けてしまった麻澄は、返す言葉がなかった。
 その隣で同じようにカバンを片づけていた彬もまた驚きのあまり、相方の麻澄に熱心なアプローチをしかけている健太にかける言葉もない。
 そんな三人の間に、異変を察知した荻窪螢(16)が猛然と割りこんだ。
「なんでもいいけど、君、誰? 部外者は勝手に立ち入らないでよねっ!!」
 小柄な体型をしているにもかかわらず、螢は麻澄と彬のカバン、そしてスコア表にドリンクケースなどを一度に担ぎあげると、二人の腕を引っ張りながらコートを後にした。
 引きずられるようにして連れて行かれる麻澄たちの姿を、取り残された健太は呆然と見つめるしかなかった。
 それからわずか一年と少しの間に、夢が実現するなどとは思いもしないまま。


「もしかして、緊張してる?」
 どこか落ち着きのない健太を見遣った麻澄は、笑いながら声をかけた。
「ん? 緊張はしてねえけどよ、待たされるのが嫌なんだ、基本的に」
 大きなため息とともに肩を落とした健太は、手にしているラケットのガットに指を這わせ、編み目を整える。
「他の試合でも見てきたら? 色んな選手がいるし、色んなプレイが見れて面白いよ」
 ゲーム前の緊張感などものともせずにいる健太の様子に、麻澄の顔に思わず笑みが浮かんだ。
 はじめての公式試合だというのに、まったく物怖じしないその性格は、試合前になると常にナーバスな状態に陥る麻澄にとっては羨ましいものだった。
「けど予定開始時刻まであと四十分だろ? 早く試合がすすんでれば、いつお呼びがくるかわかんねえからな」
「じゃあ、気分転換にちょっと様子を見にいこうか?」
 対戦表を見ながら呟く麻澄に同意するように、健太はベンチから立ちあがる。
「早くはじまらねえかな」
 タオルを乱暴に肩にひっかけて麻澄を振り返った健太は、自分の言葉に返すように響き渡ったアナウンスに、目を輝かせた。
「Fコート第五試合、永瀬・白崎ペア、宮内・市川ペアはコート待機をしていてください。繰り返します。Fコート第五試合……」
「よっしゃ。ようやくお呼びだぜ、麻澄!」
 待ちわびていた呼び出しを聞いた健太は、興奮ぎみに麻澄を呼び、カバンを手にして更衣室を後にする。
 建物の屋上から下げられている緑色の防球ネットを持ち上げると、その下を潜り抜けた。
 試合会場となっているこのテニスコートは、A〜Jまでの計十個のコートが、中央にある選手控え室、更衣室、係員・学校関係者用の役員室が収容されている管理棟を囲むようにして作られている。
 この建物全体を覆うように屋上から張りめぐらされている防球ネットは、時とともに目に見える穴数が多くなっていき、中には持ち上げるのを面倒がった生徒が開けたであろう、人が出入りできるほどの大きさのものも多数あった。
「それにしてもこの防護ネット、穴だらけで危ねえよな。こんだけ穴開いてたら意味ねえだろ」
 先に部屋を出た健太の後を追うように、ラケットバッグを肩に担いで姿を見せた麻澄に同意を求めるように、健太は呆れかえった声をあげた。
 取り囲むようにして響きわたってくる声援の声を耳にしながら、麻澄は“通り穴”に足をいれた。
 中学時代から試合会場としてよく使われていたこのテニスコートは、麻澄にしてみれば通い慣れた場所だ。
 さほど足元に注意を払わずに潜りぬけようとした麻澄だったが、肩のバッグが引っかかってしまい、片足を入れたままで絡まったネットを解いていた。
 ファスナー部分に引っかかってしまっていたネットを解くのに苦戦している麻澄に気づいた健太は、らしくない彼の失敗に意地悪そうな笑みを浮かべて傍へとやってくる。
「なーにやってんだよ、麻澄」
「あっ、悪い。すぐ行くから」
 なかなか開放されないバッグに苛立ちを覚えながら、無理やり引っ張ってしまおうと、麻澄は指先に力をこめた。
 瞬間、麻澄の右側から強引にネットが引き上げられた。
 そのまま足をとられてしまった麻澄は、タイミングよく解けたバッグを下敷きにするような格好で大きく転倒した。
「っ……おい、大丈夫か? 危ねえだろうが! 誰だよ引っ張った奴は!!」
 倒れこんだ麻澄の様子を気にしながらも、健太は怒鳴り声をあげて横の生徒をにらみあげた。
 麻澄が潜り抜けていたネットを、同じくアナウンスによって呼び出されていた他校の生徒が上へと持ち上げたため、麻澄側のネットが引きずられてしまったのである。
 健太の声を横に、麻澄はラケットバッグを杖がわりにして立ち上がろうとしたが、右腕に走った思わぬ痛みに、顔をしかめた。
 あ、れ……? 力が入らない。
 身体の異変を感じながらも、この場にいつまでも倒れこんでいるわけにもいかなかったため、今一度立ち上がろうと今度は両足に力を入れた。
「……痛っ!」
 かろうじて動かすことができたのは左足だけで、麻澄の右足は彼の意思に従わず動かぬままだ。
 ――これは、間違いなくやばいかもしれない。
 額に浮かぶ冷汗を拭いもせずにじっとしている麻澄の様子を重んじた健太は、救護室へと走った。

「病院行きね。試合どころの騒ぎじゃないわ」
 痛みを堪えている麻澄を見た係員は、怪我の状態を察知すると痛々しい面持ちになった。
「担架を用意させるから、ちょっと待っていなさい」
 再び医務室へと戻ろうとした彼女を、麻澄は小さな声で呼び止める。
「自分で行きますから、担架は結構です」
 大勢の関係者や生徒がいる中、担架で運ばれるのは居たたまれないと思った麻澄は、そう呟くしかなかった。
「気持ちは分かるけど、あんまり怪我人を動かしたくないの。だから、我慢してね」
 麻澄の気持ちも分からないわけではなかったが、怪我人への処置や対応ということを考えると、彼の意見を素直に聞くわけにはいかない。
 不安げな視線を背に感じながら、彼女は医務室へと戻っていった。

「――ごめん、健太。試合をずっと楽しみにしていたのにこんなことになって」
 受け入れなければならない現状に大きく頭を落とした麻澄は、隣で様子をうかがっている健太に言葉だけでそう告げる。
 不甲斐なさから、健太の顔を直視することさえできない。
 うつむいたままの麻澄の頭に、健太は軽く手を置いた。
「バーカ。試合を楽しみにしてたんじゃなくて、俺はお前と一緒にテニスができることが楽しいんだから、んなこと気にすんな。それにお前以外の奴とペア組んでやるつもりはこれっぽっちもないからな」
 麻澄とペアを組んでテニスをやりたいがためにこの道へと入った健太は、控え選手とペアを組んで試合に参加することを拒むように明るい声をあげた。
「ごめん」
 もう一度謝る麻澄の元に、担架を持った職員二人を伴って、先ほどの救護係の女性が戻ってくる。
「私の車まで運んでもらえますか? そのまま病院に行きますので」
「わかりました」
 騒ぎに気づいた選手たちが少しずつ集まりはじめていたが、その間を縫うようにして職員たちは担架を持ち上げると、足早に駐車場に向かっていく。
「俺もすぐに行くから、心配すんな!」
 遠くなっていく麻澄たちに向かって大声で叫んだ健太は、副顧問に報告すべく再び管理棟へ向かったのだった。



next......「Heartstrings(2)」





改稿、改稿といいつつ一年くらい経ってしまっていたわけですが……。
ようやく、「Heartstringsシリーズ」に手をつけはじめました。
全7話予定です。
以前書いていたものを大幅加筆訂正してお届けいたします。

なんというか、いろんな意味で勢いのある書きかたをしすぎていていた昔の私。
読み返すと、あまりに酷すぎてかなり凹んでおります(^^;;
一応、この改稿にあたり、過去掲載分の全てのファイルを削除しました。
すでにご覧になったことがある方も、もちろんはじめてご覧頂く方も、新しいものとしてご覧いただけたら幸いです。

この第一話では、おなじみの麻澄と螢のほかに、麻澄の中学時代のテニスのパートナーの彬や、高校時代からの新しいパートナーの健太といった、新しいキャラクターも登場しております。
今回のシリーズ「Heartstrings(心の琴線)シリーズ」は、高校生の麻澄と、大学生の瑛の物語。
彼らを取り巻く色々な人間模様もお楽しみいただけたら、私も嬉しい限りです。

基本はとってもさわやかなストーリーです。
まだまだ子供の麻澄や、少し意地悪な瑛を、よろしくお願いいたしますね(^^**


2005/07/01



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