どうして、言わなかったんだろう。
 教えてやるべきだったんじゃないのか……俺が。
 泣き崩れる忍足先輩を見て、そう思った。












 朝練の準備があるためいつもより少し早めに起きた俺は、リビングで紅茶を飲んでいる一つ上の姉、の姿に驚いた。
「なんでこんなに早いの?」
 向かいの椅子に腰掛けて尋ねると、姉さんは少し自嘲的な笑みを漏らす。
「検査の日よ、今日は……」
 その言葉を聞いて、俺は一瞬息を飲んだ。
 ――検査。
 そう、この家から車でも二時間はかかる専門の病院に、姉はもう六年近く毎月検査に通っているのだ。
 幼い頃に患った、癌の再発を防ぐために……。


 神経膠腫(しんけいこうしゅ)の中でも、髄芽腫(ずいがしゅ)という種の癌に冒されていた姉さんは、俺が小学一年の頃に、この病と闘った。
 小児に発症することが多い癌で、術後の後遺症もそれは酷いものだった。
 真っ直ぐに歩けなくなり、言葉も麻痺をしていた時期があった。
 それでも姉さんは文字通り、血の滲むような努力をして、必死に障害を克服した。
 傍目では彼女がどれほどの大病を乗り越えてきたかなど分かりようもないほどに……。
 中学に上がり、男子テニス部のマネージャーを希望して入部した時には、俺だけでなく母さんも父さんもかなり心配をした。
 それが理由ではなかったけれど、俺も入学したらすぐに、テニス部の扉を叩いたんだ。
 俺自身の行動はもちろんだったが、果たして俺たちが選んだ道は、最善だったのだろうか。


 いつものように放課後の部活が始まり、跡部先輩の嫌味たっぷりの皮肉が部室に響く。
 今日は監督は出張で来ないというから、その口ぶりには磨きがかかっているほどだ。
「のろまなマネージャーは、まだ来ないのかよ?」
 洗濯ものが山のようにかごに積まれているのを見て、跡部先輩の機嫌は些か悪い。
なら体調悪い言うて今日は休んどるよ。な、長太郎?」
「えっ? あ、はいっ!」
「あーん? またかよ? ったく、毎月一回は休んでんじゃねえか」
 監督の榊先生や部長の跡部先輩すら知らない……姉さんの病状のことは。
 付き合っている忍足先輩にも決して言わないように……と、俺はきつく口止めされていた。

『腫れもののように扱われるのが嫌なの……。それに、いつまでもこのままでいれるとは思えないから』

 忍足先輩に告白をされて、長く悩んだ末に姉さんが導いた結論だった。
 姉さんは、自分の身体が蝕まれはじめているのを知っている。
 そして俺は、どうしてやることもできず……。
 唯一できることは、こうやって月に一度嘘をつくことだけだった。
「まさか、どっか具合悪いんやないやろ?」
 テニスシューズに足を入れながら尋ねる忍足先輩に後ろめたさを感じる。
「平気ですよ。家じゃピンピンしてますから」
「ほな、明日には元気に来よるな」
 身支度を整えて部屋を出て行く忍足先輩は、安心したような口調だ。
 それはそうだ。
 この年で癌の再発に怯えているなんて、普通ありえない。


 家に戻ると、母がテーブルに突っ伏していた。
 夕食の準備すらせずに、だ。
「……母さん?」
 薄暗い部屋の電気をつけて傍に行くと、その表情は憔悴しきっている。
 こんな母を、幼い頃に見た覚えがあった。
 思い出したくもない光景だ。
姉さん、上にいるの?」
「…………駄目よ、長太郎」
 くぐもった小さな声で、母に止められる。
 そう言ったきり再び黙ってしまった母に、なにを聞くことができるだろう。
 二階の自室に荷物を置きに行く途中、閉められた姉の部屋の扉に耳をあててみる。
 息を詰まらせたように苦しげな声で泣いている姉から逃げるように、俺は部屋に閉じこもった。
 迫り来る時間は、容赦なく姉の思いと命を奪い取っていく。
 弟として、姉さんにしてあげられることは、なんなのだろう……。


 病状が悪化した場合はすぐに病院へ連絡を入れることを条件に、姉さんは自宅での生活を許可されていた。
 それを訴えるのは自身だから、月に一度の診断以外には、姉さんの言葉を信じるしかない。
 まさかここまで悪化しているのを黙っているなど、家族の誰一人思っていなかった。
 誰にも気付かれない間に一人で発作を起こしていたり、痙攣の症状が出ていることもあったと言う。
 次に倒れたときはもう、戻って来れないと分かっていたのかもしれない。
 だからこそ、無理をしてまでも今のままの生活にこだわったんだろう。
 けれどそれも限界だった。
 病院側からはすぐさま治療のための再入院の手続きを取るように言われ、母さんはその作業に追われた。
 そして俺も、姉さんにこれ以上の負担をかけさせるわけにはいかなかった。
 榊先生にすべてを話し、マネージャーを辞めるよう説得してもらう。
「監督っ! 三年生にとっては、これからが一番大事な時期なんですっ!」
「君が倒れでもして、メンバーが気を取られたらどうするつもりだ?」
 俺の目の前で、姉さんと監督の言いあいが続いていた。
「でも、私はっ!」
 言い張る姉さんの気持ちは、俺にも監督にも、痛いほどに伝わってくる。
 今のレギュラーの信頼を一身に受けているんだ。
 だからこそ、姉さんの容態が急変したりすれば、皆ゲームに集中できなくなることも分かっている。
 忍足先輩なんかきっと、試合を投げ出してでも姉さんの元に来てしまうだろう。
 姉さんだって、自分のせいで皆の集中している気持ちを削いでしまうことなど望んではいない。
 それになによりも、皆の負担になることはしたくない……そう感じているに違いなかった。



 どんなに普通の生活を送りたくても、好きなことをしたくても、今の姉さんには許されない。
 言われてみれば、話をしているときでさえもふっと視線が彷徨い、今にも倒れてしまうのかと思うほどだ。
 榊先生をはじめとした学校側にはすべて理由を話してあり、あとは部内のメンバーに伝えるだけだった。

 【海外留学】

 表向きの理由はこれだ。
 放課後の練習がはじまる前にレギュラー陣のみが集められ、榊先生の口から告げられる。
「マネージャーは本日をもって退部することになった」
「なんやて!?」
「あ?」
 信じられないと言った顔で……なにを言っているのかといった表情のまま、忍足先輩と跡部先輩は、淡々と告げる榊先生と、俯き気味に隣で立っている姉さんの顔を見つめている。
 向日先輩や芥川先輩……宍戸さんや樺地や日吉だって、寝耳に水だ。
「急に決まってね……。留学、することになったの」
 小さく笑いながら、姉さんは目線を合わせないように俯いて言う。
「せやかてっ、今までなにも……そんな話はせんかったやろ!?」
 日頃滅多に声を荒げたりしない忍足先輩だというのに。
 その声を聞いて、姉さんは震える右手の指先を隠すように左手で握り締めた。
 思わず発作が起こったのかと慌てたが、違った。
 悲しみと苛立ちが身体を駆け巡り、吐き出せる場所すらないのだろう。
「……侑士……」
 指先と同じく消え入るようなか細い声で、姉さんは忍足先輩の名前を呼んだ。
「……ごめん……」
 それでも俯いたまま顔を上げようとしない姉さんを見て、怒ったのだろう。
「勝手にしい!」
 ラケットを片手に乱暴に扉に手をかけ、一人コートに行ったきり戻ってこなかった。
 納得のいかない理由だとは思わない。
 忍足先輩や跡部先輩、向日先輩や宍戸さんだって、同じ三年なのだから学業の面でのことならば――と、納得もいくだろう。
 それが、この時期ではなかったら……いや……もっと早くに言ってくれていたのならば。
が侑士にまで黙ってたなんてな……。怒るのも無理ないぜ」
 向日先輩までもがそう口にして、姉さんを見つめていた。
 それを咎めるように、榊先生が口を挟む。
「彼女を責めるのはおかしい話だな。お前たちには自分がすべきことがあるだろう?」
 姉さん以外の全員の視線が、榊先生の方を向いた。
「長太郎と以外は、すぐに練習をはじめろ」
「俺も、ですか?」
 部長でありながらなにも知らされていなかった跡部先輩は、めずらしく不服そうな声を上げた。
「そうだ」
 それでも姉さんの今の状態を話すわけにはいかない。
 跡部先輩に絶対の信頼をおいていても、言うわけにはいかないんだ。
 日頃はあんな風に冷たい印象の跡部先輩だって、仲のいい忍足先輩に関わる大事なことを、知っていて黙っているはずもない。
 有無を言わせぬ監督命令に、俺たち以外のメンバーは皆部室から出て行った。
 残された俺と姉さん、監督の間に、重い空気が流れる。
 無理もない。部員全員を騙しているんだから。


 一人で帰れると言う姉さんだったけれど、こんなに弱々しい姿を見てしまったら誰が放ってなんかおけるだろう。
 榊先生も事情をよく分かってくれていたから、なにも言わずに部活を休むことを許可してくれた。
 隣を歩く姉さんは、精一杯元気な素振りを見せている。
 にこにこと微笑んで、「今日の夕飯はなんだろうね?」なんて口にして。
 けれどその目は力なく……。
 せめて俺の前でぐらい、意地を張らないで欲しいのに。
「――姉さん、あのさ、」
「ねぇ長太郎っ!」
 そう言おうとした矢先、俺の言葉を阻むように姉さんが口を開いた。
「侑士には……なにがあっても絶対に言わないって、約束してくれない?」
 面と向って頼まれたのは、これで二度目だ。
 一度目は、姉さんが忍足先輩と付き合うことにしたとき。
 黙っていることが姉さんのためになるのなら――。
「分かったよ。約束する」
 俺は“姉さんのためなんだと”言聞かせ、忍足先輩には言わないと誓った。
 そうすることでしか、姉さんの思いを尊重できないと思ったから。
 今思えば………。
 いや、過ぎてしまった時間を振り返ったところで、道は変わらないんだ。
 でもやっぱり、俺には姉さんの気持ちを汲み取るだけの力が無かったんじゃないか、と、自分を責めずにはいられない。



Next―――(2)








忍足夢小説では初の悲恋ものに挑戦です(^^;
先にお断りしておきますが、暗いです。
暗い内容で4話ほどで完結の予定でいますが、どうなることやら。
次回はヒロイン視点でのお届けの予定でおります。

それから、神経膠腫に関する正確な病状に関しては、私も専門家ではありませんので、
間違っている捉え方もあるかとおもいます。
お医者様、もしもいらっしゃいましたら、ご指摘いただけると幸いです(^^;

それでは、今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました。
忍足の夢小説とは名ばかりかと思いますが、
一応忍足とヒロイン、そして長太郎くんの思いの詰まった話にしていきますので、
次回もよろしくお付き合い下さいませ。

と、最後に…。
話の内容から、今回のお話ではおまけのコーナーはつけませんので、ご了承ください(^^;



2003/8/17



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