侑士は本当に怒っていて、学校で姿を見かけても、ただの一言だって口をきいてもらえなかった。
 いつもならばメールもしてくれたし、朝だって私が侑士の家の前を通るときには、いつも待っていてくれたのに、昨日も、そして今日も……まるでいなくなってしまったかのように、私を避けていた。
 わかってはいた。
 私が侑士の立場だったなら、きっと同じ風に怒るはずだもの。
 けれど、「許して」なんて言えない。
 ……言えるわけがない。
 胸が痛かった。
 頭の痛みなんかよりも、ずっと……。


 初夏の匂いをわずかに含む六月の夕暮れの風が、グラウンドを駆け抜ける。
 梅雨入りまでそう長くはないはずだけれど、今日はとても過ごしやすい陽気だ。
 この時間は空の色とボールが溶け込んでしまい見え難くなるから、早々と照明がたかれていた。
 紺色の下と水色と白が映えるジャージやシャツを着た皆は、迫る大会に向けて真剣に練習に励んでいる。
 岳人とは目を瞑っていても息が合っているだろう侑士も、長太郎と宍戸のペアを相手にラリーをしていた。
 つい先日までは私もあの中にいたはずなのに、まるで別世界を見ているようだった。
 木の幹にもたれかかった私は、しばらくそこから動くことができなかった。
 当たり前のように過ぎていくいつもの日常に、私一人が取り残された気持ちになる。
 校舎の向こうに見え隠れするビル群の向こうに沈んでいく夕陽の眩しさと、コート中に響き渡る声に、私は慌てて我に返った。
 丁度休憩時間に入った皆が、一斉に私がいる方にある水道を使いにやってきたからだった。
 逃げるように校舎の陰に飛び込み、息を殺して様子を伺った。
「あれから、と話し合ったのかよ?」
 タオルに濡れた顔をうずめながら、景吾が隣にいる侑士に声をかけている。
 突然出た自分の名前と、一番聞きたくなかった話題に慄いた。
 そして、侑士の口からこれ以上辛くて痛い言葉を聞くのが恐くて、私は今度こそ逃げ出して家に帰ろうと思った。
 きっと侑士は……私のことなんて好きでいてくれているはずもないだろうから。
 一方的な別れ話よりも酷いことを、私はしてしまったんだ。
 ――でも、それでも良かった。
 このまま侑士が私のことを綺麗に忘れ去ってくれれば。
 ……それでも……。
 私が告げなければいいだけなのだから。
 微かに痛みが増してきた頭を押さえ、静かにその場を後にしようとしたときだった。
「あいつ、俺になんか隠している気するんや」
「あ?」
 蛇口から水が流れる音に重なるようにして、ゆっくりと喋る侑士の声が聞えてきた。
「あの前の日、夏の最後の大会が終ったら一緒に海行こうって約束したばかりやったのに、突然あんなこと言いよって……。俺にも言えへんようなこと、一人で抱えてんとちゃうやろうか。長太郎に聞いても何も言わへんし。それとも……無理に告白して付きおうていたのが嫌やったんかなぁ……」
 聞きたくないと思っていた侑士の口から出た言葉に、私の視界は一気に曇った。

 どうして……。
 どうして言わないの……?

 “あんな自分勝手な女、もう関係ない”って。
 “もう、好きでもなんでもない”って。

 どうして……。

 こうなってもなお、私のことを気にかけていてくれる侑士に申しわけなかった。
 約束すら守れそうもない自分が憎らしかった。
 なによりも彼に――嘘をつかなければならないことが悲しかった。
 胸を苛む痛みと強くなる頭の痛みで、眩暈がしそうだ。
 居たたまれなくなった私は、今度こそその場を後にした。



 手の施しようがないほど病状が悪化しているのはもちろん分かっていたから、ホスピスに入ることは全く苦ではなかった。
 むしろ、病院で投薬を続けられる方が苦しかったし、辛い。
 ただ、必死に私の命を永らえさせようとするお父さんやお母さん……なによりも長太郎に対して、申し訳ないとは思ったけれど。
 私がいなくなることによって、皆の負担や苦しみがなくなるのならば。
 迷惑をかけ続けてしまった私には、この道を選ぶことが最良だと思った。
 もしも私が看病をする側の人間であったのなら、そんな道を選んで欲しくはない。
 そのことに気付くには、私はあまりにも遅すぎた。



 もう帰ってくることのない学校。
 会うことのない友人たち。
 ――大切な、仲間。
「いいな。向こうで格好いい人とたくさん知り合いになれるじゃん」
 翌日、私は最後の登校をした。
 最後のホームルームが終ると周りに自然と人が集まってきて、皆笑顔で私の“仮の境遇”を羨んでいる。
「勉強をしに行くんだよ?」
「そうだよ。それにには忍足くんがいるんだから、変なこと吹き込まないの!」
「あ、そっか。ごめんごめん。だったら私に紹介してよー」
 賑やかな笑い声が教室中に広がっていた。
 好きだな、こういう空気。
 他愛もない話で盛り上がって、ささいなことで笑いあって。
「そうね。考えておく」
 冗談を言いあって、ふざけあって。
 温かい空気を感じた私は、目頭が熱くなった。
 涙を見られずにすんだのは、「姉さん、車……来てるから」と、遠慮がちに伝えに来た長太郎のおかげだった。


 荷物を持ってくれている長太郎は少し前を歩いている。
 それは多分、今のこの状況に遠慮しているからだと思う。
……。お前、このまま黙って向こうに行く気でいんのか?」
 校舎を出かかったところで私を呼び止めた景吾は、いつもらしくないほどに他人の心配をしてくれている。
 侑士が昨日言っていたことを気にしているんだろうか。
 私は小さく頷いた。
 言う気はもちろんなかった。
 たとえもう一度侑士に問い詰められたとしても。
「侑士には……謝っておいて。わがまま言って……ごめんなさいって」
「直接言えばいいじゃねーか。お前ら終ったってわけじゃねーんだろう?」
 今度は、首を振る。
「……言えねぇ理由があんのかよ?」
「景吾?」
「あ?」
「私の最後の頼みごとだと思って……? 景吾にしか頼めそうにないから。お願い」
 つい口走ってしまった一言。
 勘のいい景吾のことだから、なにかを読み取ったのだろうか。
「三ヶ月で戻って来るんだろう?」
 名目上は短期留学だ。
 景吾もそれを信じているだけに、確認するようなことを言ってくる。
 担当医が告げた私の余命は、持って三ヶ月――。
「じゃあね、景吾……。心配かけてごめんね」
 最後の質問には答えなかった。
 ううん。

 ――答えられなかった。

 最後にいちど、大好きだった学校を――校舎を見ておこうと、私は振り返った。
 そして、私たちの会話を辛そうに見守っていた長太郎の待つ車に乗り込み、私はこの学園を後にした。




Next―――(3)








「あなたへの願い(2)」をお届けいたしました。
コンスタントに話を書き続けられなくて、本当にごめんなさい。
半年も間が空いていたとは……時間が経つのがあまりにも早すぎます。

さて、今回はヒロイン視点のお話となりました。
長太郎の視点とはまた少し違った、内面の苦悩を感じていただけると、
私も頑張って書いた甲斐があるというものです(^^;
次回は、「忍足夢小説」だというのに相変わらず出張っている、
氷帝学園テニス部部長の、跡部景吾さま視点でお届けする予定でおります。
最後はもちろん、忍足侑士ですが…。
なるべく間隔をおかずに書いていきたいとは思っておりますが、
あまり期待せずにお待ち下さいませ。

それでは、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。



2004/2/24



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