陽射しが傾き始めた午後二時過ぎ。
部屋で春季休業の暇を持て余していた永瀬麻澄(20)は、机上に置いてある携帯電話が見知った名前と番号を表示させているのに気付いた。
慌てて携帯を掴み取り、高鳴る鼓動とはやる気持ちを押さえながら、通話ボタンを押す。
「はい……」
麻澄の返事を待つ間もなく、重なるようにして相手の声が聞こえてくる。
「もしもし……麻澄? 今、大丈夫か?」
低くて、頭の奥まで響く心地の良い声。
その声の向こう側からは、ざわざわと人の声が流れてくる。
おそらくまだ、仕事中なのだろう。
医者という、時間に不規則な職業についている電話の相手、宮園瑛(27)は、午前中からかかっていたオペを終えたその足でまっすぐに医局に戻ると、最愛の恋人の声を聞くために、机の上の電話に手を伸ばしたのだった。
「あぁ、うん。平気だよ。なに? 珍しいね、こんな時間に電話かけてくるなんて」
麻澄は思いも寄らない相手からの電話に、満面の笑みをたたえていた。
「今日はめずらしく定時で上がれそうなんだ。夕飯、どこかに食べに行かないか?」
果たして医者に定時などあるのかと、思わず苦笑してしまう麻澄だったが、久しぶりの電話と食事の誘いに心も跳ねる。
だが、自分のことよりも瑛の体調が気がかりになった麻澄は、少し遠慮がちに提案した。
「いいけど……家で食べない? ゆっくりできるしさ……」
日頃の瑛の疲れを考えると、外に出てあれこれと気を遣わせたくない。
「オレ、たまにはなんかおいしいものでも作っておくから」
自分といるときくらい、ゆっくりと休んで欲しい……。
多忙な瑛と付き合うようになってからは、いつも思っていることだった。
学生の麻澄と、社会人として既に働いている瑛とでは、当然生活のリズムも異なる。
まして、医者である瑛には、自由に過ごせる時間というものが極端に少なく、麻澄とは頻繁に会うことさえままならないのが現状だった。
そんな瑛からの誘いだからこそ、麻澄自身にとっても瑛にとっても、寛げる時間にしたかった。
麻澄の気持ちが通じたのか、瑛は大きく息を吐きながら優しい口調で語る。
「おまえがそれでいいんだったら、俺は構わないさ」
瑛のその答えに、麻澄もほっと胸を撫で下ろす。
途端、頭の中には今夜のメニューが、あれこれと浮かんでは消えはじめる。
中華……いや、たまにはイタリアンなんていうのも、いいかもしれない。
でもやっぱり和食かな? 瑛、お袋の味とかに飢えてそうだし。
宙を見ながら、瑛のことなどそっちのけで一生懸命考えていると、耳元に瑛の不服そうな声が響いた。
「麻澄? 俺の話を、ちゃんと聞いていたか?」
はっと我に返った麻澄は、慌てて電話を持つ手に力を込めた。
「えっ? え?? もちろん、聞いてたよ!」
久しぶりに手料理を振舞うことに神経を集中しすぎて、せっかくかかってきた電話を切られてしまっては、あまりにも悲しすぎる。
今夜のメニューを考えるのは後回しにして、今はこのひとときの幸せな時間に身を委ねようと、麻澄は心に決め込んだ。
それからしばらくの間、互いの近況などを話し合ってゆったりとした気分に浸っていた麻澄と瑛だったが、その時間は唐突に壊された。
『宮園先生……今夜は早いんでしょう? よろしかったら、ご一緒にお食事でもどうです?』
艶やかな女性の声が、耳元に飛び込んできた。
えっ……!?
『佐伯先生……。すみませんが、今はちょっと話し中なので、後で……』
言い難そうに対応している瑛の声が、麻澄にも聞こえる。
瑛……?
しかし、不安げに思っていた矢先に飛び込んできた言葉は、今の麻澄にはとても悲しい言葉に聞こえた。
『この前約束してくれたじゃないですか。美味しいレストランに、連れて行ってくれるって……』
甘えるような口調で瑛に話し掛けているその女の声に、麻澄は切ない思いをさせられた。
オレにはようやく電話をかけてきたっていうのに、その女とは、ちゃっかりデートの約束かよ!?
しかも、なんですぐに断らないんだよ……。
そして、切ない思いは次第に怒りへと変わっていく。
悔しさと寂しさを紛らわすために、麻澄は見栄を張って平気な素振りを見せた。
「あっ、ごめん。オレも今日、合コンがあったんだった……。気にしないで、そっちも出かけてきていいから」
瑛には見え透いた嘘とばれているかもしれなかったが、麻澄はそれでも言い切った。
そして、瑛の言葉を聞かずに、そのまま電話を切ってしまったのだった。
プッ・プーッ…プーッ……。
「おいっ……麻澄っ?」
耳障りな電子音の向こうにはすでに麻澄の声はなく、無常にも通話終了の音が鳴り響いていた。
瑛は思わず頭を抱え込む。
「勘弁してくださいよ。なんのために電話をしたのか、判らないじゃないですか……」
恨みがましい声で、麻澄の機嫌を損ねた張本人の女医に訴えた。
仕事場では常にクールで、自分にも他人にも厳しい瑛のプライベートが、実はこんなに情けないものだと知った佐伯香子(28)は、深紅の口紅にたっぷりのグロスが塗られた口唇をスッと瑛の耳元に持っていくと、吐息とともに囁いた。
「あら、随分な言い方ねぇ。美人の先輩の誘いにも乗れないっていうの?」
クスクスと笑いながら、ほっそりとした腕を瑛の首に絡ませる。
そんな香子の身体を鬱陶しげにどけると、瑛は受話器を戻しながら香子を睨みつけた。
「この落とし前はきっちりと取って貰いますよ……。この後入っている、二〇四号室の大濱さんの定期検診、やっておいてくださいね!」
「えーーっ? 嫌よぉ。私も今日は定時で上がれるんだからー」
白衣の両ポケットに手を入れながら、香子はそっぽを向いた。
だが、文句を言っている香子の様子を気にするわけでもなく、瑛はロッカールームに向かって歩き出した。
「か弱い先輩よりも、短気な彼女が大事だっていうのね……」
グスグスと泣き真似をしながら瑛に訴えてみるが、まるで聞き耳を持たない。
「根性悪の先輩なら、持った覚えがありますけどね」
振り返り香子に一瞥すると、瑛はドアを閉めたのだった。
next.....「君に声が届くとき(2)」

君に声が届くとき(1)をお届けしました。
2年も前に書いた話ですので、文体に大きな違いが見られました。
本館掲載にあたり、自分の中でどうしても許せない表現を修正しております。
親ばかかもしれませんが、私はこのシリーズに出てくる登場人物たちが皆大好きです。
それは、私が書き出している小説の中でも、一番深く書き込んでいるキャラクターであり、
同時にこのシリーズは、約4年間共に歩んできているものだからです。
ここからはじまる、麻澄と瑛、そして彼らを取巻く様々な人間模様を、
少しでも楽しんでいただけたら…。そう思っております。
それでは、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
2004/1/28
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