検査入院という納得のいかない告知を言い渡されてから早五日。
普段身体を動かすことが多い麻澄にとってはなかなか不便な入院生活ではあったが、そんな日常にも少しの慣れが出はじめていた。
両足の負傷から、無闇に歩き回ることがないようにと車椅子をあてがわれていた麻澄は、病院内やその周辺の敷地を移動する際は主にそれを使っていた。
毎日見舞いに訪れるのは、彼の母親と螢、そして未樹ぐらいであったが、そんな彼らが麻澄の元に姿を見せるのは大抵日暮れに差しかかるころである。
まだ日も高い時間のためベッドから車椅子に移った麻澄は、外の空気を吸うために部屋を後にした。
重い病を患っていたり術後からまだ日も浅い患者といったわけではない麻澄は、ナースステーションにいる看護師に一言声をかけさえすれば、院内の敷地に限って自由に外出することも可能だった。
「ちょっと外に行ってきます」
麻澄の言葉に、居合わせている看護師が誰かしらこう返す。
「一人で大丈夫? 良かったら一緒に付きあってあげるわよ?」
その一言を発端に「私も、私もっ!」と、諸手を挙げて看護師たちが騒ぎ出すのだ。
困惑している麻澄を尻目に、頼んでもいない同伴者争いを繰り広げていると、必ずと言っていいほどの頻度で、「皆さん、お仕事のほうははかどっているのかしらー?」
麻澄の担当医でもある仁科が現れる。
「彼には可愛い彼女がいるんだから、変なちょっかいを出すんじゃないの。ね?」
「――はあ」
戸惑いながら、麻澄はそう返した。
「いいなあ。私も麻澄くんみたいな可愛い彼氏が欲しいですー!」
「私だって、あと十歳若ければっ」
などと言った過激な発言が飛び交う。
彼女たちのその様子に呆れ顔をしている仁科の横には、彼女が直接の指導医となっているため、常に瑛の姿があった。
仁科とは対照的に、瑛はこの光景を微笑ましそうに見つめているのだ。
しかし、今日に限って仁科の隣にはその姿がなかった。
あれ……?
『お姉さん看護師に大人気なんだ、麻澄くんは』
年下の――それもまるで子供をあやすかのような口調で。
けれど麻澄にとっては馬鹿にされているようにも感じ取れる態度で、からかってばかりいるはずなのに。
居なければ居ないで、なにか妙な空白感を覚えてしまう。
――べっ、別にあんなの居ないほうが清々するんだしっ!!
不意に浮かんだ妙な感情を払拭するように、麻澄は大きく頭を振った。
どうでもいいんだ、あんな奴。
「行ってきます」
看護師たちと仁科に見送られながら、タイヤを回す腕に力をこめて、麻澄は階下に向かうエレベーターへと乗り込んだ。
正面玄関横のなだらかなスロープをゆっくりと下り、少しばかり黄葉がつきはじめた銀杏の木々が立ち並ぶ小道をのんびりと散策する。
ちょうど病院の裏側にあたる場所にたどり着いた麻澄は、人通りの少ないその場所にある穏やかな日差しが注ぐ日向へと腰をすえた。
夏の厳しい暑さから一転、朝晩の気温が日中よりもかなり下がりはじめているこの時期、そよぐ風はわずかな冷たさを含み、照りつける陽の光の強さも明らかに弱くなってきている。
そんな心地よい特有の気候を感じながら、麻澄は両の目を閉じて陽だまりの中に身をゆだねた。
「あったかい」
思わず独り言を口にしてしまう麻澄の耳に、見知った人物の声が聞こえてきた。
声の方向を探ると、彼がいる場所からおよそ車三台分ほど離れた場所にある木々の間から、二つの人影が見えた。
「でも、付き合ってるっていうよりは仲がいいだけっていう感じだし」
――未樹?
ずいぶんと早い時間に病院にいる未樹に疑問を抱きながら、どこか人目を忍んでいる様子の彼女を、麻澄は黙って見つめていた。
「僕は、麻澄くんの彼女なんだとばかり思っていたよ」
「えー、それって先生のすごい勘違い」
未樹は麻澄に背を向けて話している。
その向かいにいる話し相手の姿を目にした麻澄は、一瞬身体を強張らせた。
――なんでこんなところに?
「僕でもいいの?」
「宮園先生って、意外と謙虚なんだ。なんか可愛い」
「そう、見える……?」
未樹は腕を瑛の首にそっと回すと、わずかにかかとを浮かせた。
瑛の顔が半分ほど隠れるのを見た麻澄は、表情を歪める。
瞬間、未樹を見下ろしていた瑛の視線が麻澄の姿を捉えた。
彼の反応を見て楽しんでいるかのように、その瞳は笑っていた。
なんでっ……。
どうして!?
居たたまれず、そして理解できない苛立ちに襲われながら、麻澄は今来た道を戻った。
必死にタイヤを回して。
付きあっているはずの未樹が浮気をしていたという事実などよりも、自分を見据えた瑛の眼差しが、酷く麻澄の胸を突いた。
彼になにかをしただろうか?
確かに、看護師の言いつけを破りトイレに行ってしまったことは、決して褒められることではない。
だが、ただそれだけの理由で、あのような眼差しを向けることなど考えられなかった。
あれは明らかに、自分に対して好意を抱いている者のする目ではない……と、麻澄は感じた。
次第に呼吸が上がり、タイヤを回している指の腹が痛みはじめた。
それでも夢中で車輪を回していた麻澄は周囲に気を配る余裕もないほどに動揺をしていたのか、行きはしっかりと避けたはずの大きな石に乗り上げてしまった。
バランスを崩した車椅子は前のめりとなり、麻澄の身体は中へと投げ出される。
「っ……!」
勢いよく打ちつけられた身体の痛みに呻きながら、のろのろと身体を起こした。
アスファルトに擦られた頬や腕には血がにじみ、数日の入院生活によってわずかながらも回復を見せはじめていたはずの左足首が、再び鈍い痛みを訴えだす。
「馬鹿だ、オレって」
情けなさに自分自身を責めながら、頬を乱暴に拭った。
倒れたままになっている車椅子に手を伸ばそうとした麻澄は、突然上がった大声に驚き、その手を止める。
なにごとかと振り向くと、両手に買い物袋を下げた看護師の本永が血相を変えて彼の元に駆けよってくるところだった。
「やだっ、なにがあったの? 大丈夫!?」
荷物を放り出し、車椅子に麻澄を座りなおさせると、足早に病棟に戻っていく。
「まったく。病院内で怪我をするなんて、聞いたことないわよ? いったいなにしたら車椅子がひっくり返るっていうのよ」
処置室に連れて行かれた麻澄は、仁科に怪我の理由を問われながら、増えてしまった傷に治療を施された。
よもや、未樹が瑛と浮気をしていた現場を見て逃げ出した挙句の怪我だということなど、今の麻澄には言えそうもなかった。
傷の簡単な消毒と、足の怪我の状態を診察し終えた麻澄は、本永にしっかりと付き添われて病室へ戻された。
“車椅子で遊んでいたら転んでしまった”というのが、麻澄の言い分ではあったが、仁科も本永も、麻澄の言葉を信じていなかった。
遊んでいたようにはとても思えないほど、麻澄の眼差しが張り詰めていたのだ。
布団に入らされた麻澄は、そのまま包まるようにして中に潜りこんでしまう。
ややして、なに食わぬ顔で病室に現れた未樹にはもちろん、学校帰りに立ち寄った螢や様子を見に来た母親にすら顔を見せず、布団に篭って考え込んではまどろみ、再び目を覚ますといったことを繰り返していた。
痛む足を抱えながら。
夜の食事の時間になっても顔を出さず、運ばれてきていた病院食は手をつけられることなく片づけられてしまった。
入院しはじめてからというもの、決して美味しいと言えるものではなかったが、与えられた食事はきちんと残さずに食べていた。
それは、作ってくれた人への感謝の気持ちと、食べ物に対する粗相がないようにとの両親からの躾があってのことでもあった。
箸もつけずにそのままにされていた食事を見た本永は、仁科に報告をする。
「同じ男同士だし、私たちには言いにくいことでも少しは話してくれるんじゃないかしら……」
この状況にほとほと手を焼いた彼女たちは、麻澄が眠っている間に、今、彼自身が最も顔を合わせたくない相手を呼び寄せていた。
うとうとと眠っていたはずだったが、いつの間にか本格的に深い眠りに陥ってしまっていたらしい麻澄がようやく目を覚ましたのは、口唇になにかが触れた感触からだった。
いつもであれば、このくらいのことで目覚めることはまず、ない。
今日に限って覚醒してしまったのは、昼間のあの光景が今もはっきりと麻澄の心の奥底に引っかかっていたからだった。
――間違っても、あいつの匂いがしたからなんかじゃない。
目に映る人物を、すぐ隣の椅子に腰掛けている人物の姿を見て、麻澄はまたしても反射的に身体を強張らせた。
怒りや緊張の類でこういった反応をとったわけではない。
昼間見た、あの瑛の眼差しの真意を量りかねていたからだった。
今、自分の目の前に居る男は、いつも仁科の横で微笑をたたえている男と同じなのだろうか……と、じっとその瞳を見つめて探ってみる。
言葉は、なにひとつ交わさなかった。
険しい視線を肌で感じ、瑛は心の中で少しばかり笑みをこぼした。
苛虐心を煽られるのではないが、どうしてか、この少年の言葉や反応といった一挙一動が気にかかるのだ。
冗談交じりとは言え、口説きにかかる看護師たちの中でもどこか困った顔をしているばかりで、その整った容姿を鼻にかけるわけでもない。
むしろ、麻澄は自分の容姿に関しては無頓着そうに思えた。
同じ男という目線から見ても、確かに整った顔立ちで美人だとは思う、が……如何せん女の趣味が悪すぎる。 休憩時間に裏庭で一服しようと出たのが間違いだったのか、未樹に声をかけられたのだ。
自分を探していたのか、麻澄の見舞いに訪れたのか――今となっては、前者だったであろうと、瑛は推測する。
瑛は、己の容姿を鼻にかけるタイプはろくなものではないと、過去の経験上から思うようにしている。
未樹もまた、例外ではなかった。
そして、麻澄を見ていると、自分とはずいぶんと年の離れた義理の弟を思い出すというのが、彼をかまってみたくなるもう一つの理由でもあった。
無論、姿形はどこをとっても、麻澄と重なるものはなかったが。
昼間、あの場所で瑛と未樹を見たことで麻澄が塞ぎこんでいることは、瑛の目から見ても一目瞭然だった。
――自分の彼女を横取りされたと思っているのだから、その相手でもある自分に好意を持てるわけもない……か。
「子供じみた真似は止めるんだな」
どう言葉をかけるべきか思案していた瑛であったが、最初に出た言葉は、本人でさえ思いもよらないほどきついものだった。
出してしまった言葉に少しばかりの焦りを覚えながらも、瑛はそのまま厳しく話を続けた。
刺すように険しい視線を気にも留めず、瑛は丸椅子から離れる。
声を押し殺しながらも、はっきりと聞こえるように彼の耳元で告げた。
「患者はお前一人ではないんだ。我がままを言って困らせるな」
よそ向けの笑顔など片鱗も見せぬまま、素の自分として麻澄に忠告をする。
すでに麻澄には、善良な医学生の姿とそうではない姿、両方を見られているのだから、今更外面を繕ってご機嫌を伺う必要などないだろうと、瑛は踏んでいた。
「出てってよ……」
数日前、初めて言葉を交わしたときとは、とても同じと思えない人物を相手に、麻澄は声を震わせる。
どうしてこんな状況になったのか。
こんな気分を味わわなくてはならない、最大の元凶でもあるこの男に、どうしてこのようなことまで言われなければならないのだろう。
「医者でもないくせに、偉そうなこと言うなっ!」
麻澄のすぐ隣のベッドには、明日の退院を控えている患者が眠っていたが、構わずに大きな声を上げる。
「そういう態度が子供だというんだ。今何時だと思ってる」
「関係ないだろっ。あんたがここから出て行きさえすれば、オレだって静かにするさ」
「そうしてまた布団にもぐりこんで、一人で拗ねるのか」
――分かってない、なにもっ!
そう思いながらも、自分の行動を言い当てられてしまい、なにも言い返すことができなかった。
「……居たければ居ればいいよ。オレが出てく」
一緒の空気を吸うことすら嫌という面持ちで瑛を睨みつけ、麻澄はベッドから降りようとする。
両足をかばうようにしながら床に足をつけたが、横から伸びてきた瑛の手によって動きを止められてしまった。
嫌がり身体をよじって抵抗をしたが、身体を軽々と抱え上げられ、ベッドの上に戻されてしまう。
「…………か」
逃げ出すことすら叶わなかった麻澄の口から、小さくかすれた言葉が漏れる。
「そんなにオレが嫌なんだったら、関わらなければいいじゃんかっ!!」
もう一度、今度ははっきりと瑛を見据えて感情をぶつけた。
なぜこのような嫌がらせ紛いのことをされたり、嫌味を言われなければならないのか、麻澄自身にはまるで原因が分からなかった。
ただ、相手が自分に好意を抱いていないということしか、理解できない。
「オレが、なにをしたって言うんだよ!」
口で言っても行動をとっても、どうやっても瑛のほうが上手で、麻澄の目からは悔しさから涙まで溢れ出し、情けないと感じていても……彼の前では涙など見せたくないと思っていても、零れ落ちていくものを堪えることができなかった。
シーツをぎゅっと握り締め、俯いて息を殺していると、優しく頭を撫でられる。
その感触に、麻澄の身体は大きく震えた。
先刻の冷たすぎる言葉とは裏腹に、酷く優しい仕草に、どう反応すべきか分からない。
「悪気があったわけじゃ、なかったんだが」
頬を伝っていく涙を指先でそっと拭われ、ハンカチを取り出した瑛は麻澄の手の上に静かに置くと、それ以上なにを言うこともないまま背を向けた。
わずかな月明かりに照らされている麻澄の横顔をもう一度だけ見つめた瑛は、ベッドを囲っていたカーテンの向こうに姿を消した。
ドアが閉まる音の後には、少しずつ病室から遠ざかっていく足音が響く。
ついに聞こえなくなったとたん、麻澄はようやく身体の緊張を解いた。
主はすでに居ないというのに、ハンカチを通して微かに漂う香水の匂いが、ひどく鼻につく。
彼の真意が、まったく分からなかった。
あの手の温もりも、どうしてこんなものを置いていくのかということも。
next..... to be continued.

「Heartstrings」第五話をお届けいたしました。
今回は麻澄と瑛の微妙すぎる関係をメインにしてみました。
未樹がね……未樹。なんていうか、嫌だなあ。
でもこういう子って、絶対に居るんですよね。微妙な自信家というか。
そういう子が好きな人も、もちろんいるんでしょうけれど。
瑛はおそらく小さい頃から、好きな子は苛めたくなるタイプの人間かと思われます。
鈍すぎの麻澄には、それを感知するだけの余裕は……ないだろうなと(苦笑)
今回は全部書き上げた後、最後の病室での二人のやり取りを若干書き直しました。
瑛の視点でも何箇所か書いてたんですが、結構削って麻澄の描写のみに。
やっぱり未だに三人称描写に戸惑いを隠せない自分。
昔は勢いで書いてたからあれですが、少し知識を持ってしまとそれが変に働いてしまうんですよね。
私の文章鍛錬はまだまだ続きそうです。
2006/09/27
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