とどまることなく過ぎていく時間の流れを止めたいと願うやつは、この世の中にどれほどいるだろうか。
 信心深い長太郎ではないこの俺でさえ、神を頼ってみたいと……頼みこんでやりたいと……そう感じた。


 大会を目前に控えたこの時期に、がここを離れる理由。
 忍足の言葉じゃないが、確かに様子がおかしいのは間違いなかった。
 “最後の頼み”だなどと、たかが数ヶ月の留学に行くだけの人間が使うだろうか。
 が日本を離れて二ヶ月。
 忍足の様子は、傍から見ればいつもと同じだ。
 テニスコートを囲むようにして押しかけてくる生徒はもちろん、あの岳人でさえ気づいている様子はない。
 この俺でさえ気づかなかったんだ。
 無理もないだろう。


 に頼まれた伝言を聞いた忍足は、わずかにその表情を曇らせたが、それ以上のことを深く聞いてくることはなかった。
 だから俺も、それ以上のことは告げなかった。
 しょせんは他人事だ。
 人の恋愛事情に首を突っ込んでいるほど、俺も暇じゃない。


 あいつの異変に気づいたのは、その日から一ヶ月が経とうとしていた頃だった。
 都大会予選を二週間後に控えていたあの日――。

 練習時間が通常より一時間以上増やされているため、夜も九時を軽く回ってしまっていたところだった。
 膨大なメニューを終えた疲れからか、レギュラー陣もさすがに口数が減っていて、足早に部室を後にしていく。
 さすがの俺も、ここ数日の過密スケジュールのおかげで疲れが抜けきらない。
 肌にまとわりつくシャツを脱ぎ捨てシャワールームに足を入れたとき、聞き慣れた声が聞き慣れた名を呼んだ。
……」
 ――いまだに引きずってやがるのか。
 たとえようもない苦しげな声は、まぎれもなく忍足のもの。
 そんな声を出すくらいなら、なぜ直接言わないんだ。
 あのときのといい、今のお前といい……。
 他人事のはずなんだ。
 それなのにどうしてか気になってしまうのは、部活で三年間同じときを過ごしてきたからだけではない……。
 繋がりあっているはずなのに不器用な二人だからだろうか。
 それとも……俺には到底できそうにない“純愛”などというような関係に興味があるからだろうか。
「――なにを考えてんだ、俺は」
 肩にかけていたタオルで力いっぱい空を切り、忍足に引きずられるようにして入ってしまったくらい空間を拭い去ると、蛇口を全開にする。
 痛いほどに降り注ぐ水流を受けながら、俺はわざとらしいほどの大声をあげた。
「忍足っ! 俺が出るまでには着替え済ませとけよ! じゃなけりゃ一晩中ここに閉じ込めんぞ」
 おそらく静かに考え込んでいるであろう奴に発破をかける。
「なんや跡部、まだおったんか? 悪い、すぐに出るわ」
 きわめて冷静、そして普通を装っている忍足に合わせるように、俺もいつもの調子を取り戻す。
「こんなところでへばってないで、さっさと家帰って寝ろ!」
「はは、せやな。ついつい気ぃ抜けてしもうたわ」
 ――そうやってまた、一人で抱え込んじまう気か?
 出かかった言葉を飲み込み、俺は忍足の思いから目を背けた。



 夏の日差しの厳しさが一際増した、台風一過の晴天の日のことだった。
 わずかに湿り気を帯びた空気から逃れるために、ガットの張替えを終わらせたその足でコーヒーショップへと入った。
 通りに面した席に座り、フレンチコーヒーを飲んでいた俺の目の前に、小さな花束を抱えて足早に歩く長太郎の姿が映った。
 地元から電車を乗り継いで一時間はかかるこの場所に、なぜあいつの姿が……?
 放っておけばいいものの、こんなときに限って探究心が芽生えてくる。
 まだ湯気を上げているカップのコーヒーをそのままに、俺は店を後にした。


 ――行かなければよかったのかもしれない。
 知ってしまうくらいならば……。


 大通りから二区画ほど路地裏に入ったところで、長太郎は足をとめた。
 その目が見つめる先には、三階建ての白い壁をした建物――いや、病院があった。
 肩を落とし力なく地面に視線を向けていた長太郎だったが、自らを奮い立たせるかのように一度 大きく深呼吸をすると、中へと入っていった。
 俺は再び長太郎の後を追うように、建物に踏み込んだ。
 適度な温度に調整された室内には、明るい日差しがやわらかく差し込んでいる。
 受付で記帳を終えた長太郎は、左奥の階段をあがっていく。
 場所が場所なだけに、勝手に歩き回るのはまずい……。
 そう判断した俺は同じように受付へと行き、外来者用の名簿に目を通した。
 そしてそこに記されている入院患者の名前を目にした途端、我が目を疑った。
 ペンを持ったまま動かないでいることを不審に思ったのか、看護婦が声をかけてくる。
「どうかなさいましたか?」
「……い、や。なんでもありません……」
 ――いったいなにがどうなっているんだ。
 が、なぜ、ここに?
 留学の話は……?
「……」
 再び黙り込む俺に、看護婦は書き込んだ面会先を見つめながらの病室の場所を教えてくれた。
「それにしても、ちゃんに長太郎くん以外の子が会いに来るのってはじめて見たわ。もしかして……ちゃんの彼?」
 忍足がこの場にいたら殺されかねない質問を投げかけてくる彼女に、思わず苦笑してしまう。
「同じ部活の友人です」
 当り障りのない返答をする。
“友人”……そう思っているのは、俺だけじゃないよな? 
「あら、そうだったの? ごめんなさいね変なこと聞いちゃって。てっきり……」
「いえ、構いません。ところで彼女、いったいどこが悪いんですか?」
「聞いていないの? ちゃんはね、脳に腫瘍ができてしまっているの。もう二ヶ月前からここに入っているのよ」
 二ヶ月前……。
 それは、あの様子がおかしいと感じたとき辺りからだろうか。
 思い返してみれば、間違いはなかった。
「容態はどうなんですか?」
「そうね……。今週はだいぶ落ち着いているけれど……時間の問題ね。ここがいったいどういところなのか……分かるでしょう?」

 俺たちの通う学園の傍にある私立病院の系列でもある場所。
 余命いくばくもない人間が、自分にとって価値ある時間を送るための場所――ホスピス。

 ここがそういうところだということは、そういったことに縁がない俺でさえ知っていた。
 は……覚悟の上で、あえて誰にも言わない道を選んだというのか……?
 忍足にさえ……。
 半ば信じられない思いで、俺はがいるであろう病室へと向かって走り出した。
 受付の人が静止する声も聞かぬまま。



 二〇六号室。
 病室を探しだし、と直接会って話す以外のことは、なにも思い浮かばなかった。
 朝陽のあたる東側の窓辺に面した部屋の前についた俺は、ノックもそこそこにスライド式のドアノブに手をかける。
 ついたての向こうにあるベッドには、背もたれを起こして長太郎と話をしているの姿があった。
「――景吾!?」
 は信じられないといった面持ちで、前触れもなく現れた俺の名を呼んだ。
「っ……跡部先輩っ!?」
 その声につられるようにして振り返った長太郎もまた、二の句が告げないといった表情だ。
 二ヶ月ぶりに目にしたは、お世辞にも健康的と呼べる状態ではなかった。
 ひときわ白さの増した顔が、それを如実に物語っている。
「ちょっと待って……。景吾、一人?」
 ゆっくりと身体を起こしながら、は俺の背後に人がいないかを確認する。
 眉根を寄せて苦しそうな面持ちをしながら。
「あぁ。一人だ」
「そう……」
 どこかほっとしたかのような……それでいて、どこか寂しげな……。
 そんな顔を見せられると、ますますの真意が読み取れなくなる。
「跡部先輩……どうしてこの場所が?」
 むしろより動揺しているのは長太郎のほうだった。
 大きな音を立てて椅子から離れると、すぐに近くへとやってくる。
「偶然お前のこと見かけて、気になったからついてきたんだよ。そしたらこんなところに入っていきやがるから、なにごとかと思ったんだ。……そんなことより、お前いったいなんだってーんだよ。留学の話は嘘だったのか!?」
 好きとか嫌いとか、そんなレベルの感情なんかではない。
 友人として、悩みのひとつも打ち明けてもらってなかったんだということのほうが、俺はショックだった。
 恋人である忍足には言えなかったとしても、俺にまで。
 共に過ごしてきた今までの時間は……くだらない話や、ヤツとのささいな喧嘩の話をした、そんな時間はなんだったというのか。
 どうしようもない苛立ちと虚しさが俺の中で渦巻いている。
 それを当てるかのように、声を荒げてを問いただした。
「――そういう顔をさせてしまうのが嫌だったの」
 ベッドの角度を調整するリモコンを操作しながら、は俺の顔を見つめた。
「侑士にも、景吾にも、他のみんなにも……そんな顔をして欲しくなかったの。みんなのことが好きだから……大切だから。死ぬなんて知ったら、みんな嫌な思いするでしょう? それだったら一人でひっそりといなくなっ」
「ふざけんなっ!」
 の言葉を遮るように、自分でも考えられないような大声をあげてしまった。
 こんな声をあげたのは、生まれてはじめてかもしれない。
 だが、の言い分は、あまりにも聞き捨てならなかった。
「俺は……俺や忍足が、そんなに狭い人間だと思ってんのか!? 他のやつらは別としたって、少なくとも俺たちは嫌な思いなんてしねぇよ。それを勝手に一人で抱えこんで、あげくひっそりと死んでいく? 冗談も休み休み言え!」
「跡部先輩っ!」
 詰め寄る俺を諌めるように、長太郎が腕を掴んだ。
「離せ、長太郎。この際だから言わせてもらうぜ。お前は知らねぇだろうがな、この二ヶ月の忍足はな、それは見てられるような状態じゃねーんだ。理由もなく突然別れを告げられて、どういう気持ちでいるか考えたことがあるか? 一人っきりでお前の名前を呟いているあいつのことを考えたことがあるのかよ?」
 他にいくらでも選択肢はあったはずなんだ。
 それなのに、なぜ、はこんな道を選んだ?
「先輩っ! やめてください! なにも……なにも知らないくせに、姉さんのことを悪くいうのはやめてくださいっ!」
 普段は穏やかな性格の長太郎が、引き下がらなかった。
 痛いほどに俺の腕を掴み、から引き離そうとする。
「姉さんは……限界まで忍足先輩たちの傍にいることを選んだんです。幼い頃に患った癌が再発していることに気づいていながら! みんなで全国に行くために最後の大会のことだけを考えて……。辛かったはずなのに、それを隠し続けていたんです! 迷惑になりたくないって……それだけの理由で……っ」
 最後には一筋の涙を流し、ようやく俺の腕を離した長太郎。
「今回だって……姉さんは残ろうとしたけれど、榊先生に止められたんです。俺が、そう説得してくださいって頼んだから。姉さんに、生きて欲しいからっ! だから姉さ」
「やめてっ!」
今度はが、長太郎の言葉を遮るように声を張り上げた。
「お願いだから……もう、やめて……」
 シーツを握る手が小刻みに震えている。
 俺も長太郎も、から目が離せなかった。
「私、侑士のこと、すごく傷つけてしまったって分かってる。付き合おうとしたときも、こういう終わりかたをすることだってないとは言い切れなかったから、すごく迷った……。でもね、でも……『私はもうすぐ死ぬの、ごめんなさい』なんて、私には……言えない。そんなことで侑士を苦しめることなんてできない。それだったら、少しの痛みで済ませるほうがいいじゃない……。目の前から姿を消してしまえば、いなくなってしまえば、少しは諦めもつくじゃない……っ」
 痛いほどの想いが――悲しいほどの苦しみが、俺を襲った。
 よりにもよって、なぜ、こいつらなんだ?
 なぜ、こんなに辛いすれ違いをしなければならない?
 言葉を詰まらせ泣き出すを、どうして責めることができるだろう。
 忍足も、も……こんなに想いあっているというのに。
 俺は、ついさっきの自分の言葉を思い返した。
 たしかに忍足は、ものごとの見極めや状況判断に優れているし、柔軟な考えかたができるやつであり、器も大きい。
 しかしそれは、表向きな部分だ。
 メンタル面の影響を強く受けるテニスで身に付けた術なのかもしれないが、これがのことになると話は別かもしれなかった。
 それは、俺なんかよりも付き合いの深いの方がより分かっているだろう。
「侑士はね、すごく……すごく優しいの。いつだって私のことを最優先に考えてくれるし、嫌がることはなにひとつしない。私ね、自分でも大切にされてるな……って思ってた。そんな侑士に私ができることなんて、彼を傷つけないようにすることくらいしかないのよ。でも、どの道を選んでも傷つけてしまうのであれば、一番浅いものがいい。だから私は、あえて離れる道を選んだの」
 の言いたいことも分からなくはない。
 だが、こんな終わりかたで永遠に離れるなんてことがあっていいのだろうか。
 の思いを受け止められないほど、忍足は弱い人間だろうか。
 俺は、どうしたらいい――?
「だからね、景吾……。このこと、侑士には絶対に言わないって約束して。長太郎にもずっと口止めしてきたの。ここまできたんだから、もう……」
「そんなに苦しむ必要がどこにある? 言って、残りの時間を大切に過ごしたっていいだろう?」
 そう思うのは当然だ。
 もし俺が忍足の立場であれば、を一人きりで逝かせることなんてできるはずがない。
 辛かったとしても、苦しかったとしても、一緒にいられるほうがいいに決まってる。
「友達でしょう? これくらいのお願い、聞いてくれたっていいじゃない」
 柔らかな笑顔に続いて向けられた言葉が、どれほど重かったか……。
 俺は、返事をすることができなかった。
「信じてるから……景吾のこと」
 こいつの顔を真っ直ぐ見ることができなかった。
 俺にはどうすることもできない。
 忍足に言ってやりたいが、そうすればを苦しめることになる。
 をこれ以上の苦しみに追いやることなど……できるはずがない。
 ――くそっ……!
 友人として、にしてやれること……それは、忍足のことを色々と教えてやることぐらいだ。
 黙って背を向けた俺に、はもう一言ささやいた。
「景吾、来てくれてありがとう。久しぶりに顔見れて嬉しかった。それから……ごめんね」
「……また来る。それまで大人しくしてろ」
 嫌というほど、忍足のことを話してやる。
 写真だってビデオだって、お前が望むのであれば、なんだってやってやる。
 それで少しでも……お前が救われるのであれば。
 知ってしまった現実から目を背けぬよう、俺は心に誓った。





Next――(4)







「あなたへの願い(3)」をお届けいたしました。

景吾たま、どうしてあなたはこんなに出張ってくるのー。
自分で書いてて泣きたくなってまいりました。
とどまるところを知らないってー程に、一人で淡々と語ってくれちゃうし;
しかもこの跡部ってば、どうしたってエセなのは分かりきってるというか、
ありえない勢いで他人思いなんですが…(^^;
どうしちゃったんですか!? 跡部さま(笑)

えぇと、とりあえず確認までに……。
このお話は、忍足×さんの夢小説です。
侑士をもっと出さんかい! とお怒りの方……ごめんなさいね(^^;
次回はたっぷりと忍足に語ってもらいますので。
ついでに、めいっぱい苦しんでもらいますので(え;)

ということで、今回はこの辺で。
相変わらずののろのろ連載ですが、また忘れた頃にでも覗きにいらしてくださいませ。
まったりとお待ちいたしております。
それでは、今回もお付き合いいただき、どうもありがとうございました。


2004/6/21



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