粉雪の舞い上がる寒空は、どこまでも薄灰色の雲に覆われている。
暖かい校舎から抜け出し、私は一階の渡り廊下を足早に歩いていた。
一昨日辺りから、頭痛が酷い。
親元から離れて寮生活をしている私には、部屋に戻っても看病をしてくれる人なんていない。
それだったら……誰かしらいるに違いない保健室で休んだ方が、少しは元気になれる気がしたから。
「くしゅんっ……!」
思わず足を止めて、背筋をよじ登ってくる寒気と共にくしゃみをしてしまった。
「さむっ」
身震いしていると、グラウンドから突然大きな声が聞えてきた。
「あかん、避けやっ!」
え、なにっ!??
気付いたときにはすでに遅く、孤を描いて飛んできた白い物体が、私の頭を直撃する。
ゴンッ。
「……おいっ!」
遠くなっていく意識の中で最後に見えたのが、酷く心配そうな面持ちで私を覗き込んでいる、忍足くんの姿だったような気がした。
独特の薬品の匂いが鼻につき、私は目を覚ました。
側頭部の辺りが、不自然に腫れあがっている気がする。
「痛い」
外側からの痛みと内側からの痛みに思わず声を出してしまうと、突然目の前のカーテンが開いた。
「あら、もう大丈夫?」
片手に氷嚢らしきものを持って、白衣を纏った女の人が私の枕元に立つ。
そこではじめて、自分が保健室のベッドにいるんだってことに気付いた。
「私……」
「さん、ボールに当たって倒れたのよ」
「……そういえば……」
廊下を歩いていたら、なにか飛んできたのまでは覚えている気がする。
「すみません、ご心配おかけして」
「それは構わないけれど、大丈夫?」
「えぇ、平気です」
そう言って手元の時計を見ると、時刻は既に十四時を回っていた。
いつのまにか四時間も眠っていたようで、私は正直驚いた。
「授業出ないといけないので……」
傍らに脱がされて置かれている上履きに足を入れて、ベッドから抜け出した。
「気分が悪くなったら、いつでもいらっしゃいね」
保健室での入出記録表を手渡されて、私は小さくお礼を言った。
なんだか教室にいたときよりも頭痛が酷く感じるのは、気のせいではないと思う。
ちょうど五限目の授業が終ったみたいで、あちこちの教室から生徒たちが出てきた。
こんなに寒いにも関わらず走り回っている男子たちをみると、心なしか元気になってくる気がする。
階段の冷たい手摺に手をかけて、私はゆっくりとそこを上がった。
やっぱり、六限は出ないで早退しようかな……。
俯いて考えていると、不意に頭上から大声が舞い降りてきた。
「危ないっ! 退きや!」
……!?
関西弁……?
そう気付いたときには、またしても既に遅く。
今度は人が降って来た。
おかっぱのような髪型が印象的な、小柄な男の子。
向日……くん?
何で、人が上から飛び降りてくるのよ。
一日に二度も、こんな目に遭うだなんて……。
悲鳴をあげるまでもなく、今度はしたたかに床に頭をぶつけた。
「っ! 平気か?」
薄れ行く意識の中で、やっぱりまた、忍足くんが心配そうに私を覗いていた気がした。
今……私の名前、呼んだ……?
恥ずかしい。
もう。こんなことなら、今日は学校休むんだった……。
忍足くんは、テニス部に入っている。
クラスは……何組なのかは知らなかった。
女の子達が騒いでいるのは、よく知っている。
氷帝学園のテニス部レギュラー陣といえば美形が多いので、誰に彼女がいる……とか、振られた……とか、告白された……とか。
そういった類の情報は、私自身が進んで調べようとしなくても自ずと噂で耳に入ってきた。
けれど私の知っている彼は、桜の花が雪のように舞う中、一人で壁打ちをしていただけの人。
その姿がとても綺麗で……それでいて、とても近寄り難い雰囲気だった、そんな人。
もちろん、年もクラスもよく分からないけれど、私と同じクラスの跡部くんたちと仲良くしているくらいだから、きっと同い年だと思う。
この学校では、とっても目立つ関西弁。
でも、その不思議なイントネーションが、私はとっても好きだった。
ときどきクラスに跡部くんを探しにやってきて、あの綺麗な口元で喋る声を聞けただけで。少しだけでも顔を見れただけで。その日が、すごく幸せな日だったと感じる。
話したことなんてもちろんないし、そもそも私の存在なんてきっと知らない。
ううん、絶対に。
シュンシュンとやかんのお湯が沸騰する音が耳に入る。
目が覚めると、やっぱり私はさっきと同じ保健室のベッドの中にいた。
でも、さっきと一つ違うことがあった。
それは……。
「目ぇ覚めたか?」
ベッドの横にある椅子に腰掛けて、忍足くんが私の顔をジッと見ていた。
「っ……!?」
びっくりして、思わず飛び起きる。
だって……寝顔見られてたに違いないもの。
「なんや? 気分悪いんか?」
「う、ううんっ!」
ぶんぶんと大きく頭を振って忍足くんの質問に答えつつ、破裂しそうに大きく動いている心臓を必死に押さえようと努力した。
落ち着いて……。
落ち着くのっ……!
きつく目を閉じて唱えている私の様子が、気分を悪くしていると思ったらしい忍足くんは、
「堪忍な……」
すごく、自分を責めるような言いかたをした。
どうして忍足くんが謝るの?
なにもしてないじゃない。
「謝ったりしないで」
精一杯明るい面持ちを作って、私は忍足くんに微笑んだ。
「私が周りをちゃんと見てないから、こうなったんだし」
「せやけどもとは俺が原因なんや。悪かった」
「ううん」
忍足くんのせいだなんて、少しも思ってなんかない。
むしろ私には、彼がこうやって傍にいてくれていることのほうがずっと、ずっと嬉しかった。
きっともう、こんなチャンスはないだろうから。
「ありがとう……忍、足くん……」
――好きだよ。
誰にも聞えるはずのない心の中で、小さく囁いた。
私以外の人には、絶対に届かない言葉。
口に出すのは普通の言葉でも、本当はこんなことを思ってるだなんて、絶対に思わないでしょ。
そう私が口にした途端、彼はめずらしく顔を赤くした。
「なんや……俺の名前、知っとったんや」
え?
「めっちゃ嬉しいねんけど」
……えっ?
「……」
……えぇっ??
びっくりした。
もう、心臓が止まってしまうくらい。
そして、自分でもはっきりと分かるくらい耳まで真っ赤になった。
どうして?
なんで、忍足くんが赤くなるの?
なんで、嬉しくなるの??
なんで、私の名前なんて知ってるの???
なんで!?
まるで固まってしまったかのように、私はその場から身動きができなかった。
もちろん、恥ずかしくて忍足くんの顔も見れない。
そんなこと言われたら私、勘違いしちゃうじゃない。
一人で、自惚れちゃうじゃない。
「ずっとな、のこと見てたんや」
トクン、トクン…トクン……。
早鐘を打つっていうのは、本当にこういうことを言うのかもしれない。
まるで夢の中にいるみたいな言葉を、忍足くんは紡いでくれた。
聞えるのは、飛び出してきそうな勢いで動いている私の心臓の音と、懸命に自己を主張するかのようなやかんの悲鳴。
そして、隣にいる、忍足くんが……息をする音。
嬉しかった。
ずっと憧れていた人に名前を覚えていて貰えたうえに、こんな言葉まで聞けるなんて。
「わ、私なんか……の、どこがいいの?」
けれど、口から飛び出た言葉は自分自身を否定するかのような言葉。
だって……あの忍足くんが。
氷帝の天才って言われるほどの、彼が。
クラスも離れていて、話したこともない私のことなんて……。
「あかんで、自分のことを卑下するみたいな言い方」
声色を幾分強めて、私の言った言葉を咎めた。
「一目惚れなんていうと、なんや気恥ずかしいやんなぁ……。せやけど、のこと初めて見た時から、気になって仕方なかった」
まるで昔を思い起こしているように、忍足くんは上を向いて瞳をやさしく閉じていた。
「丁度春やった。桜が満開でなぁ。が教室で居眠りしていたところを偶然見つけたん。風で桜の花が飛んできたと思たら、の口唇に一枚だけくっついてしもうて。それでも気付かずに、えらい気持ち良さそうに寝てるの見てたら、いつのまにか、目ぇ離せなくなってた」
……うそ……。
今まで教室に来ていた忍足くんは、私のことなんて知らないと思ってた。
ううん。
それ以前に、きっと彼女の一人や二人くらい、望まなくったっているんだと思ってた。
だから、どんなに願っても彼の気持ちが自分に向いてくれることなんて……ないと思ってた。
視界が、微かに歪んだ。
……駄目だ。涙が出そう。
小さく鼻をすすって、私はゆっくりと息を吐いた。
「?」
様子がおかしいのに気付いたのか、忍足くんが椅子から立ち上がって、私のすぐ傍まで顔を寄せてきた。
「私、」
意を決して、忍足くんの顔を見つめた。
ここで言わなきゃ、きっと……もう、チャンスはない。
互いの視線が、音がするかのようにぶつかった。
「私もね……忍足くんのこと、好き……だった」
コクンと、忍足くんが息を飲んだのが分かった。
両目を見開いて、信じられないといった面持ちで私を見ている。
「一緒だね。私も、忍足くんのことはじめて知ったの、春だった」
さっきとは逆。
今度は私が瞳を伏せて、いつだって忘れることができなかった、あの春先の光景を口にした。
「雪みたいに桜の花が舞ってて、その中で忍足くんが一人で壁打ちしてた。凄く綺麗でかっこよくて……。でも、話し掛ける勇気なんてなかった。だから、ずっと黙ってようって思ってた。忍足くんが教室に来るたびに、顔を見れただけで、すごく幸せだったの」
きっと、今の私の顔は、どんなに熱が上がったってできないくらいに赤いと思う。
今まで生きてきた中で、こんなに緊張したことってきっとない。
同じくらい、恥ずかしい思いをしたこともきっとない。
すごく、いたたまれなかった。
「信じられへん……」
その言葉に、私はビクッと身体を震わせた。
……迷惑、だったのだろうか。
恐る恐る視線を上げてみると、忍足くんは額に手を当てて天を仰いでいた。
そして突然、その広い胸に私を抱き寄せた。
ビックリして声も出せない。
「こないに嬉しいの、はじめてや」
私の髪に指を滑らせて、優しく何度も撫でてくれる。
そっと、その手が私の頬に滑り降りると、綺麗な口元でゆっくりと囁く。
「なぁ、俺の彼女になってくれへん?」
ドク、ドク…ドクッ……。
触れ合った場所からは、きっと私の心臓の音が聞えているだろう。
震える口元で……やっとの思いで返事を返す。
「私で……いいの?」
「だかえら、ええねん」
「本当……?」
「嘘なんかつかへん」
しつこいって思われるんじゃないかと言う程、こんな質問をしてしまった。
勇気を出して、頬に触れている忍足くんの手に自分の手を重ねた。
「私の……彼氏になってくれる?」
忍足くんは、突然神妙な顔つきになってこう言った。
「俺で、ええんか?」
「……忍足くんだから、いいんだよ」
「ほんまに?」
「……嘘なんて、つかない」
さっきの会話と、全く逆。
二人で同時に吹きだしてしまう。
場所が保健室だってこともすっかり忘れて。
「ゴホンッ!!」
突然聞えてきた咳払いにビックリして、掴んでいた手を思わず離す。
「誰か、いるの?」
「先生がおる」
「……やばいよ、こんなことしてたら」
慌ててベッドから降りようとすると、忍足くんがもう一度手を掴んできた。
耳元で、私にだけ聞えるほどの小さい声で、囁く。
「なぁ、キスしてもええ?」
「えっ!?」
止める間も無く、私の好きな忍足くんの綺麗な口元が迫ってきて、そっと塞がれた。
優しい口付け……。
こんなところでいけないことをしてるって分かっていても、離れられるわけない。
一秒、二秒……。
駄目、もう考えてられない。
互いの口唇が離れたときには、私は思わず肩から力が抜けてしまった。
「やっぱ、綺麗やわ。も、の口唇も」
くすくすと笑いながらもう一度耳元で囁かれて、私はまたしても真っ赤になった。
「もうっ……!」
「も一回、しよか?」
こんなことを二人でしていたら、突然ドアの開く音が響き、続いて不愉快そうな声が聞こえてきた。
「おい、忍足! そんなところでいつまでもいちゃついてないで、さっさと部活に出てきやがれ!」
「……跡部や」
「ごめんっ、もうそんな時間だったんだ」
二回目に私が倒れてから、随分と時間が経っていたらしい。
ビックリして、今度こそ急いでベッドから飛び降りた。
忍足くんが、部活にも出ないでここにいてくれたんだと思うと凄く嬉しかった。
跡部くんの不遜な物言いに小さく舌打ちをすると、忍足くんはもう一度私の手を掴む。
「。部活終るまで、待っててくれへん?」
またしても、顔を赤くしてしまう。
こんなこと言うなんて……。
――殺し文句だよ、忍足くん。
「……うん。待ってる」
「ほな、後でまた迎えに来るさかい、ここで待っといてな」
再びその胸に抱きしめられて、額に口唇を落とされた。
最後にもう一度私を見て微笑むと、未だに文句を言っている跡部くんを引き連れて、保健室から出て行った。
やかんの音が、静かになった保健室にまた響く。
「若いっていいよね〜」
椅子の音を軋ませながら、先生が唐突に呟く。
そういえば、先生には一部始終聞かれてたんだった。
「す、すみません……」
穴に入りたいほど恥ずかしくなって、私は小さく先生に謝った。
すると、カーテンを開けて先生が姿を現す。
「今日はね、彼が二回ともさんのことここまで運んできたのよ」
クスクスと笑って、私に暖かい紅茶を差し出してくれた。
そうして、忍足くんが私のことを迎えにきてくれるまで、今日一日の、忍足くんの慌てぶりようを事細かに教えてもらった。
...........end.
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