切れかけた裸電球の弱々しい光がうっすらと室内を照らしている部屋の片隅、指紋がべったりとつき曇りきった鏡と水垢がこびりついた洗面所の前で、アモール・ブリュッセルは面倒くさそうに顎に手を這わせながら、生えかかっている髭の手入れをしていた。
「おいミッシェル、電話だ!」
 潰れかかった電子音を響かせて知らせを告げる電話の音に、剃刀を持つ手を止めたアモールは大きな声をあげた。
「はいはい、今出ますよーっと」
 飲みかけていたホットミルクの入ったカップをテーブルに音を立てて置いたミッシェルは、軽い身のこなしで足元に散らばったままのゴミや服を避けながら電話の元にたどり着くと、大きく深呼吸をした後、受話器を手にとった。
「お電話ありがとうございます、カロンです。本日はどのようなご希望でしょうか?」
 電話主からの注文を流れるようにメモしながら、ミッシェルは洗面所のアモールにサインを送った。
「はい、夕方十六時にそちらのお屋敷ですね。かしこまりました。ありがとうございます」
 受話器を置いたミッシェルは、鼻歌交じりの声でアモールに声をかける。
「アモール、ご指名だよー」
 ようやくすっきりとした面持ちになったアモールは、テーブルに置かれていたカップを手にすると、一息に飲み干した。
「ったく、奴らも相当の好きもんだな」
「文句言わない! そのおかげでオレらも食いっぱぐれないで済んでんだし」
 ため息を漏らすアモールをたしなめるミッシェルの前で、再び醜い電子音が響く。
「お電話ありがとうございます、カロンです。本日はどのようなご希望でしょうか?」
 ――カロン。
 アモールの経営するこの店は、完全予約・指名制の派遣調教サービスをうたうところだ。
 建物の外からの侵入は一切不可。
 客はそれぞれ独自のルートで手にした電話番号を頼りに、この店へコンタクトをとる。
 カロンのサービスを満喫する方法は、その一つだけだ。
 一晩のプレイによる報酬はおおよそ二百万。
 その値段からか、この店を指名する顧客は、一般家庭以上の収入を得ている裕福な階級の者が大半を占めている。
「普段の性生活では味わうことのできない満足感とスリルを味わった」
 一人の女性がパーティ会場の片隅で語った言葉を鵜呑みにした人々は、なんとかしてカロンのサービスを受けようと躍起になったが、肝心の電話番号が広まらなかった。
 “人に教えてしまうのが惜しい”
 一度でも彼らとプレイをしたものならば誰もが思う、このことが原因だった。
 それでも情報はどこからともなく漏れていくもので、今日もカロンの電話は不気味な音を響き渡らせていた。
「はい、夜十八時にそちらのお屋敷ですね。かしこまりました。ありがとうございます」
 再び訪れた依頼に、ミッシェルはさらに笑みを深くした。
 肩口まである美しいブロンドがさらさらと揺れ、暗い部屋の中でも綺麗な光を反射させる。
「やったね。今夜は久しぶりにオレにもご指名が来た!」
 いそいそとメモを書き上げたミッシェルは、テーブルの上に二枚の紙を置いてバスルームへと入っていった。
「右側のがアモールのほうだからね。十六時に屋敷に来てくれって。オレのほうが後にここ出るから、戸締りは任せて! オレ久々だから、時間までゆっくり身体でも磨いておくー」
 マゾヒズムの嗜好を持ち合わせる顧客にさまざまな調教を施し、絶対の服従と快楽を与えることを担当とするアモールに、サディズムの嗜好を持ち合わせる顧客からさまざまなプレイを与えられ、その支配欲を満足させることと、サディストの育成とを担当するミッシェル。
 カロンは、この対照的な二人によってやりくりされている店なのである。

「ったく、どいつもこいつもお盛んだな、毎晩」
 見るも無残に荒れ果てた自室の中でも、唯一綺麗に整理されている仕事用の道具が置かれた棚から、アモールは次々と道具を鞄に押し込んでいく。
 ローター、バイブレーターにはじまり、クスコ、轡(くつわ)、ロープ、蝋燭、ピン、ローション、貞操帯、妖しげな薄紫色の液体、他にも細々とした色々なものが放り込まれた。
「日も暮れないうちからよくやるぜ」
 快楽に溺れている金持ち連中をあざけるかのような口ぶりをして、テーブルの上の紙を乱暴に掴んだアモールは、バスタブに浸かっているミッシェルに軽く声をかけ、店を後にした。


「あら、随分と早くいらっしゃったのね」
 ドアノッカーに手をかけたアモールは、しばらくして姿を現した女の言葉に首をかしげた。
 ――時間は十五分前だぞ? そんなに早くしたつもりはなかったが。
 疑問に思いながらも、わずかに肩をすくませた。
「遅刻するわけにはいかないんでね」
「まあいいわ。入ってちょうだい。まっすぐ行ったところがリビングだから。お茶を持ってくから少し待ってて」
 促された部屋につくなり、アモールはソファへと腰をおろす。
 一目で高級なそれとわかる調度品の数々に、足元の絨毯。
 靴が埋まりそうなほどに長い毛に、彼はわずかに呆れ顔だ。
「市長の奥様がね、こっそりカロンの番号を教えてくださったのよ。さっそくお呼び立てしちゃって悪いわね」
 白磁のカップに注がれた濃いコーヒーを手渡されたアモールは、それを口に運びながら再び肩をすくめた。
「こっちも仕事ですからね。気にしてませんよ」
 言葉と共に瞳を伏せていた彼は気づかなかった――。
 女の口元に浮かんだ笑みを。
 その笑みが意味することを知るのは、後戻りのできない状態に陥ってからだった……。
 他愛のない話を聞かされていたアモールは、不意に襲ってきた眩暈に頭を大きく振った。
 しかし次の眩暈が彼を襲ったとき、その身体は大きく崩れ落ち、豪奢なカーペットに倒れこんでしまったのだった。



(サンプル作品につき、部分抜粋)



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