呼び寄せる淵

●オープニング

――恐いもの見たさで行くもんじゃない。
地元住民の間でまことしやかに囁かれるのは、U市とF町の境にある古びた屋敷を取り囲む淵。
通称、【人喰い淵】である。
鬱蒼と繁った木々の向こうに広がる、昼間でも暗さに飲み込まれそうなほど陰気臭さをまとった空気。
近くに行くのさえも嫌な雰囲気の漂う場所だが、若者たちはこういう場所を好む。
好むというよりは、ひとときの恐怖と興奮を味わうために、訪れるのであろう。
口コミで広がっていただけのものが、ここ数年の携帯電話の爆発的普及によって、メールを媒介としたものに変化し、情報は瞬く間に日本中に伝播していった。
淵へと続く道には、【安易に踏み込むな】といったものや【私有地】と記された看板も多数立てられているが、楽しむためにやってきた者の目に留まることなど、まず、ない。
澱んだ水面に吸い込まれるかのように今日もまた、男が一人、淵の亡霊に見初められ――還らぬ人となった……。

いわゆるチェーンメールの一つであるこの話が、碇麗香の元に届いたのは三日ほど前だった。
「人喰い淵ね……。うちでも調べてみる価値、あるかしら」
転落事故による溺死と記された新聞だけを信じるのならば、それでもいい。
しかし、編集長の感が告げるものがあったのか……麗香はデスクの上の受話器に手を伸ばした。


●動き出す殺人鬼

そんなに死に急ぎたいのであれば、このGが出向いてやろうか……。
地上を通る車や列車の騒音さえも気にせず、G・ザニーは濃緑色とも褐色とも言える闇に溶け込む色のガスマスクをつけながら、人知れず口元に笑みを浮かべた。
構内の剥き出しのアスファルトから染み出した水が滴り落ち、その音が響く中、薄暗い下水道を大きな足取りで歩く。
水を掻き分けて進むその姿は、人――とは思えないなにかがあった。
足元やレインコートが濡れることすら気にせず、彼は先を急ぐ。
薄明かりの中、銀色の目が不気味に光る。
“人喰い淵”で待っていろ。殺してやる……。


●三人の協力者

現地集合としていたため、三下が協力を依頼した人物と顔をあわせたのは、あと数時間で日も落ちるという頃だった。
もっとも、三下は自らの力で頼んだと思ってはいたが、実は事前に麗香から連絡を受けていたということなど、本人は知るよしもない。
暗くなる前に事前調査を済ませることは、特に未知のものが相手の場合は必須である。
現場へ足を運んでいた海原みそのと柚品弧月は、三下よりも早くに待ち合わせ場所へ顔を見せた。
海原みそのは三下の運転してきた車の助手席に座り、ラジオから流れてくる音楽を楽しんでいる。
「えぇっ……と、G・ザニーさんはまだいらっしゃいませんね……」
おどおどと落ち着きのない様子で、三下は車の外を歩き回る。
「この時間だと国道も混んでいるから、ひっかかっているのかもしれませんね」
磨き上げられて鈍いシルバーの光を反射する愛車、スティードのシートを跨いで資料を見つめたまま、弧月は視界に入る三下に告げた。
「で、でも待ち合わせの時間まであと10分ありますし、大丈夫ですよね?」
「わたくしたちが早く着いてしまったのですから、待つのは仕方ありませんわ」
静かに微笑まれた三下は、少し落ち着きを取り戻したのか、動き回ることだけは止めたようである。
それでも、人喰い淵への恐怖は拭い去れないでいたが……。
ふいに自分の足元に広がった大きな影に、三下は驚きとっさに背後を振り返る。
視線を資料に向けていた弧月も、音楽を聴いていたみそのも、その気配を感じてそちらを向いた。
人気の少ない町中であろうと、そうでなかろうと、どうあっても目立つであろう姿をした男が、静かにそこに立っていた。
「はじめまして。G・ザニーさまですわね? わたくし、海原みそのと申します」
「はじめまして。柚品弧月です」
いつのまにか乗り物から下りていた二人は、Gに挨拶をかわす。
その姿に驚きしばらく固まっていた三下も、慌てて頭を下げた。
「あ、あ、あのっ、アトラス編集部の、み、三下ですっ!!」
三人の言葉を受けて、Gは暗いマスクの向こうに隠れた瞳を一度だけ瞬かせる。
――言葉は無かった。


●死への享楽

「ねー、やっぱ帰ろうよ〜」
「何言ってんの!? ここまで来たら、やっぱ本物見ないと!」
膝上何センチあるだろうか……というほどに制服のスカートを短くしている二人の少女が、立てられた看板の道を通り抜けていく。
一人は足取りも重く、帰りたがっていたが、もう一人は淵の噂に強い興味を持っているようだった。
雑木林のようにさまざまな種の木々が生い茂り、どんよりと厚い雲に覆われた空のどこかから、烏の鳴き声が木霊する。
霧のような、ガスのような……視界を遮る黄色がかった空気が辺りを取り巻いていたが、気に留めることすらなく彼女たちは更に奥へと進んでいった。
「ここが本当に人喰い淵?」
面白半分で淵に近付くと、少女は水面を覗き込む。
「ちょっと〜! 近くに行くのやめなよっ!」
「平気、平気!」
「も〜」
気が乗らない少女は、出来る限り淵から離れてその様子を見つめていた。
心なしか、視界が揺らめいた。
え?
霞んだ視界に違和感を覚えた少女は、立ちくらみかと額を抑え、両目を閉じる。
「ギャーーーーーーーァーーッ!!」
その時、鼓膜を破るようなこの世のものとは思えない友人の凄まじい悲鳴が響き渡り、少女は目を剥いた。
声の方向に恐る恐る近付き、そして……見てしまったのだ。

――水面に広がる無数の顔を。

数百はあるであろう、同じ顔。
それらが全て鼻の辺りまで、泥のような澱んだ水面から姿を覗かせ、長い髪が広がっている。
「ひっ!!!!」
声を聞きつけたかのように、それらの目が一斉に自分を捕らえた。
淵を覗き込んでいた友人の姿は、既にない。
想像すらしていなかった事態に身体中の血液全てが凍りつき、一歩も動けない状態だった。

耳障りな叫び声……だが、Gにしてみればどんな美辞麗句よりも心地よく、愉快な音色に聞える。
死への恐怖。
生への執着。
この瞬間……人を殺すこの時こそが至上の楽しみなのだ。
警告を無視し、己が満足するためだけに、この地へとやってきたのだ。
お前の相手をしてやろうではないか。
弧月とみそのがやってくる前だというのに、Gは誰の承諾も得ぬまま、少女の背後に立った。
「死にたいのだろう?」
少女の頭の奥深くに、水面の女の姿をしたものからではない、地を這うような低い声が響く。
震える唇を噛み締め、両手で耳を塞いで辺りを振り返った瞳に、ガスマスク姿の男が写った。
恐ろしさに呼吸が引き攣り、喘ぐ金魚のように口を動かす。
喉元を掴まれ、そのまま足元が浮く位置まで高く上げられ、少女の意識はますます混沌となっていく。
淵の悪霊の呪いなのか、目の前の男に殺されかけているのか。

――来るべきじゃなかった。
遊び半分な気持ちで、こんなところに。

頬を伝って一筋の涙が地面に落ちる。
恐怖よりも後悔の念が少女を襲う。

ご……めん…なさい……。

Gに吊り上げられていた少女は、命を媚びるよりも先に、自分の取った行動の浅はかさを思いながら、そのまま気を失った。
重くなった右手の感覚に煩わしさを覚え、そのまま手を離すと、淵へと目を向ける。
二人の少女が見つめていた淵には、何の気配も影も見える様子はない。
何を見つけ、何に恐怖を感じていたのか……。
崩れ落ちるように倒れた少女にはもう何の関心も示さず、行く手を阻むように生える木々をなぎ倒し、Gは斜面を滑るようにして淵に足を入れた。
異形が出ようと霊が出ようと、恐ろしいものなどなにもない。
殺せばいいだけなのだ。
底なし沼のような纏わりつく泥の圧力を足に感じながら、Gは奥へと足を進める。
胸元まで沈んだ彼の手の届く範囲に、人の身体と分かる形のものが当った。
乱暴にそれを手繰り寄せてみると、目を見開いたままの凄まじい形相をした少女の死体だった。
当然の報いだな。
自ら死を望んだお前の末路だ。
あざけるように笑い、泥水に塗れた少女を見つめた。


●淵の嘆き

淵へ続く入口に立ったみそのは、周囲をとりまく風を静めた。
どんよりと沈んだ雲、高い湿度と、林の中を廻る風。
事件が起こる気象条件の共通点がここにあると指摘した、弧月の言葉を受けてのことだ。
若干のぬかるみを帯びている地面に手をついた弧月は、途中から別行動をしていたGがここへ来る前に、さらに他の人間が通っていたことを知る。
「彼女たちは、もう駄目かもしれませんね」
「えぇ、この状況では恐らく……」
口と鼻を、この場所へ来る前に購入したバンダナで押さえた二人は、表情を強張らせた。
「三下さん、あまり近くに来ない方がいいですよ?」
一人手間取っている三下に注意を促した弧月は、みそのを伴って淵へと急いだ。

「それにしても、“人喰い”だなんて随分面倒な名前で広がってしまっていますね、ここ」
広がる噂を止めることは容易ではない。
ましてやそれが、人の好むような話題であるのならば尚のことだ。
ぬかるむ足元に気を遣い、みそのの手を引きながら、弧月は溜息を漏らす。
「そのものと現実が見えない方には、確かに食べられているように見えるのかもしれませんわ」
「そこが、一番面倒なんですよ」
「そうですわね。けれど、そのおかげでわたくしたちは様々な現象や事件に遭遇できる……そう思うと、悪くも無い気がします」
意外な言葉を告げられ、弧月は思わず頷く。
そう、だからこの手の仕事は止められない。
自分以外にも同じような考えを持った人間がいることが、弧月には嬉しく思えた。
「俺も、この微妙なスリルと緊張感が好きなんです」
「物好きなのでしょうか? わたくしたち」
「さて、どうでし……」
突如現れた目の前の光景を見て、弧月は言葉を失った。
「柚品さま?」
途切れた会話と動きを止めた弧月の様子に気付いたみそのは、意識を前へと集中させる。
駆け寄る足音と共に、弧月の言葉が続く。
「気を失っているだけ? もう一人は!?」
首筋に残る鬱血した指跡を見つけたが呼吸があることを確認した弧月は、自分の口と鼻を覆っていたバンダナを外し、少女の顔を覆うように付けると傍を離れる。
「海原さんっ! 俺はこっちを見ますから、あとはよろしくお願いします!」
霧が出ているかのように視界を覆う黄色味を帯びた空気を振り払いながら、後方にいるみそのに声をかけると、弧月は注意深く淵へと足を踏み入れた。


●消えていく恐怖

死体を持ったままGは再び辺りを見回す。
奇妙な色味を帯びた霧がガスマスクのゴーグル部分に付着して視界が曇ったが、Gは気にせずにあたりに気を配った。
ガサッ。
草木が擦れる音と共に姿を現したのは、漂う霧に顔をしかめながらGの元にやってきた弧月だった。
「すみません。遅くなりました」
Gが手にしている少女の死体を見つけ、さきほど地面から読み取った少女たちの行動と状況が間違っていなかったことに弧月は肩を落とす。
少女の顔は、例えようも無いほどの恐怖を味わった……そう表現するのが一番妥当と思えるものだった。
躊躇いも無く淵の中に身体を沈め、弧月はGのいる場所まで足を取られないよう注意しながら進んだ。
「上でみそのさんが淵の浄化をはじめますので」
その言葉と共に、意志をもったように林の中を巡っていた風がピタリと止み、続いて端々から背丈の高かった木々たちが低くなっていった。
至るところに咲いている藤紫色の花々が再び吹き出した風に包まれるようになったかと思うと、大きさがみるみるうちに縮まり、ついには姿を消してしまう。
さらには、見慣れない光景に息を飲む弧月と漠然と見つめていたGのいる淵にも風が向ってくる。
風とともに淵の内部から暖かく大きなエネルギーが押し寄せ、淵の色を澱ませているありとあらゆる沈殿物が瞬時にして消え去ると、淵の水は底が見えるほどに透明なものへと変化していた。
それは最早、“人喰い淵”とは呼べないほどに綺麗なものだった。


●淵の真実と外来植物

「大丈夫ですか? お二人とも」
水面から顔を出したままの弧月とGに向って、みそのはゆっくりと声をかける。
「えぇ、俺は大丈夫です」
「…………」
予想していた通り対照的な反応が返ってきたことに笑みを浮かべた。
「とにかくこちらへ。例のものは全て排除しましたわ」
少女の死体を手にしたままのGは、マスク越しに低い声を発した。
「例のものとは……何だ」
透き通った水と光は性にあわないようで、幾分機嫌が悪そうな口ぶりだ。
途中から別行動をしていたGに、“人喰い淵”の由縁を話していなかったことに気付いた弧月は、死体を譲り受けながら説明をする。
「ここの淵周辺にだけ生息している、外来種の植物があったんです。湿度が高く曇りの日……ちょうど今日のような陽気の日に開花して、特有の花粉を風に乗って辺りに運ぶ。この花粉が人体に入り込むことによって、幻覚作用が起きていたんです。俺が考えるに、この花粉が人間の脳の恐怖を司る部分に何らかの刺激を与え、個人にとってもっとも恐ろしいと思えるものを見せていた。その恐ろしさに気が動転した人たちは、そのまま淵に転落をして溺死したんではないか……と。あくまでも推測に過ぎないのですが」
斜面に生えている木に捕まり、死体を地面へ引っ張った弧月は淡々と語る。
「それで、海原さんには淵の浄化と植物の排除をお願いしました」
「そして、ザニーさまが彼女を助けてくださったんですのね?」
にっこりと微笑んだみそのは、Gが助けた少女の傍に腰を下ろしながら、静かに問い掛ける。
二人の視線を感じたGは背を向けた。
「事情はわかった。その女は、殺す理由がなくなっただけだ……」
長居は無用と言わんばかりに歩き出す。
弧月が気を失っている少女に視線を落として再び上に向けたときには、Gの姿は忽然と見えなくなってしまった。
「不思議な方でしたね。ザニーさま」
「……そうですね」
残された少女と、泥に塗れた少女の遺体を見つめながら、弧月は警察へと連絡をする。
「後は、一般の人にお任せしましょう」
天候はいつのまにか夕焼けの茜色が広がるほどに回復しており、彼らが立去った後の淵には、柔らかな空気が取り巻くばかりであった。


●終焉

わざわざ赴いてやったというのに、思っていたほど楽しさを味わえる依頼ではなかった。
期待が外れたことに機嫌を悪くしながら、再び薄暗い地下水道に戻ったGは、右手に残る重みと感触を思い出した。
“死”を恐れるようであれば、抵抗するようであったならば……間違いなく殺していたはずだった。
日頃の自分らしくない行動をとってしまったことに対し苛立った様子で、Gは足元で乱暴に下水を掻き分け進んでいく。
まぁいい。次こそ、楽しませてもらうさ……。
マスクの向こうには妖しく光る銀色の目が輝き、隠された素顔の下の口元には、めずらしく楽しそうに歪められていた。




[呼び寄せる淵・終]



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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1388 / 海原みその / 女性 / 13 / 深淵の巫女】
【1522 / 柚品弧月 / 男性 / 22 / 大学生】
【1974 / G・ザニー / 男性 / 18 / 殺人鬼】

(整理番号順)

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