呼び寄せる淵

●オープニング

――恐いもの見たさで行くもんじゃない。
地元住民の間でまことしやかに囁かれるのは、U市とF町の境にある古びた屋敷を取り囲む淵。
通称、【人喰い淵】である。
鬱蒼と繁った木々の向こうに広がる、昼間でも暗さに飲み込まれそうなほど陰気臭さをまとった空気。
近くに行くのさえも嫌な雰囲気の漂う場所だが、若者たちはこういう場所を好む。
好むというよりは、ひとときの恐怖と興奮を味わうために、訪れるのであろう。
口コミで広がっていただけのものが、ここ数年の携帯電話の爆発的普及によって、メールを媒介としたものに変化し、情報は瞬く間に日本中に伝播していった。
淵へと続く道には、【安易に踏み込むな】といったものや【私有地】と記された看板も多数立てられているが、楽しむためにやってきた者の目に留まることなど、まず、ない。
澱んだ水面に吸い込まれるかのように今日もまた、男が一人、淵の亡霊に見初められ――還らぬ人となった……。


いわゆるチェーンメールの一つであるこの話が、碇麗香の元に届いたのは三日ほど前だった。
「人喰い淵ね……。うちでも調べてみる価値、あるかしら」
転落事故による溺死と記された新聞だけを信じるのならば、それでもいい。
しかし、編集長の感が告げるものがあったのか……麗香はデスクの上の受話器に手を伸ばした。

スチールの回転椅子の背もたれに寄りかかりながら、麗香は眼鏡の奥の瞳を幾分そばめた。
その視線は、手元の携帯電話のディスプレイに注がれている。
「三下く〜ん、ちょっといらっしゃい」
声だけでそう呼び寄せられた三下は、ただならぬ予感に声を震わせる。
「な、なんでしょうか……編集長」
「なんでしょうか……じゃなくって、仕事よ仕事っ!」
不意に耳をつままれた三下は、小さな悲鳴を上げる。
「人喰い淵に行ってきて頂戴」
「えぇっ!??」
自分の携帯に転送されてきたメールをご丁寧に再転送し、ややしばらくすると、三下の携帯が音を立てる。
受信した画面を食入るように見つめ、あまりの内容に絶句した。
添付されている写真を見れば一目でわかるほど、“出そうな雰囲気”が漂う淵。
「大丈夫よ。行った人間が皆死んでいるわけじゃないから。それに……」
麗香は組んでいた足をゆっくりと解き、三下にとっては唯一の救いともなるべく言葉を発した。
「あなた一人じゃ頼りないから。心強いメンバーも同行してくれるわ」
思ってもいなかった上司の計らいに、三下は感極まった声を上げたが、その思いは瞬時に打ち崩された。
「もちろんそれは、あなた自身で探して頼んでくるのよ?」
相も変わらずの無慈悲な物言いに、三下の目には涙が浮かんでいた。


●淵のほとりで

ざわざわ。
林の中だけに風が廻っているかのような不思議な感覚に、みそのは耳を澄ませた。
黒瑪瑙のような深みのある瞳をそっと閉じ、問い掛けるように胸元で両手を合わせる。
「人喰い淵だなんて、あまりの言われようですわね」
淵の主に問い掛けるかのように、優しく呟く。
「どうして人を殺めるのですか?」
彼女の問いに応えるかのように、淵の上を風が通り抜けた。
それはまるで、救いを求める小さな叫びのようだと、みそのは感じた。


●三人の協力者

現地集合としていたため、三下が協力を依頼した人物と顔をあわせたのは、あと数時間で日も落ちるという頃だった。
もっとも、三下は自らの力で頼んだと思ってはいたが、実は事前に麗香から連絡を受けていたということなど、本人は知るよしもない。
暗くなる前に事前調査を済ませることは、特に未知のものが相手の場合は必須である。
現場へ足を運んでいたみそのと柚品弧月は、三下よりも早くに待ち合わせ場所へ顔を見せた。
みそのは三下の運転してきた車の助手席に座り、ラジオから流れてくる音楽を楽しんでいる。
「えぇっ……と、G・ザニーさんはまだいらっしゃいませんね……」
おどおどと落ち着きのない様子で、三下は車の外を歩き回る。
「この時間だと国道も混んでいるから、ひっかかっているのかもしれないですね」
磨き上げられて鈍いシルバーの光を反射する愛車、スティードのシートを跨いで資料を見つめたまま、柚品弧月は視界に入る三下に告げた。
「で、でも待ち合わせの時間まであと10分ありますし、大丈夫ですよね?」
「わたくしたちが早く着いてしまったのですから、待つのは仕方ありませんわ」
静かに微笑まれた三下は、少し落ち着きを取り戻したのか、動き回ることだけは止めたようである。
それでも、人喰い淵への恐怖は拭い去れないでいたが……。
ふいに自分の足元に広がった大きな影に、三下は驚きとっさに背後を振り返る。
視線を資料に向けていた弧月も、音楽を聴いていたみそのも、その気配を感じてそちらを向いた。
人気の少ない町中であろうと、そうでなかろうと、どうあっても目立つであろう姿をした男が、静かにそこに立っていた。
「はじめまして。G・ザニーさまですわね? わたくし、海原みそのと申します」
「はじめまして。柚品弧月です」
いつのまにか乗り物から下りていた二人は、Gに挨拶をかわす。
その姿に驚きしばらく固まっていた三下も、慌てて頭を下げた。
「あ、あ、あのっ、アトラス編集部の、み、三下ですっ!!」
三人の言葉を受けて、Gはマスクの向こうに隠れた瞳を一度だけ瞬かせる。
――言葉は無かった。


●アイテム

「三下さまは、幻覚植物というのをご存知ですか?」
淵へ向かう途中に立ち寄ったショッピングセンターで、突然みそのが口にした。
「マジックマッシュルームが昨年、麻薬原料植物として規制されるようになったぐらいしか」
記憶の底から、そんな新聞記事を読んだことを引きずり出す。
「そうです。キノコの類では多いのです。食してしまうと幻覚が出るといったものも含め……」
「それがどうかしたんですか?」
Gと別れ、みそのと弧月そして自分の三人が何のためにこの場所に居るのかも、突然の質問の意味も三下は理解していなかった。
「今回の事件は、その手のものが絡んでいるらしい……ということなんですの。先ほど、柚品さまが仰っていらっしゃいましたわ」
うっとりとした面持ちで笑みを深くするみそのを見つめ、三下の背を再び嫌な汗が通る。
どうしてそんなに楽しそうに言うのだろう。
落胆する三下をよそに、みそのはさらに楽しげに言葉を続ける。
「精神面で弱い人などは、ひとたまりもないかもしれませんわ」
「えぇっ!?」
「それに、淵の精霊がとても怒っておいでですのよ?」
最後の言葉はみそのなりの冗談だったのだが、もはや三下の耳には届いているはずもない。
ステアリングにしがみついて泣き言を漏らす彼の気配を感じ、みそのはますます上機嫌になった。
碇さまが三下さまを虐める理由、なんとなく分かる気がしますわ。

車内でみそののささやかな言葉責めにあっていた三下のもとに、今回の事件解決には決して欠かせない必需品を買いに走っていた弧月が戻ってくる。
「淵に向う前に、しっかりと巻いておいて下さい」
みそのに差し出されたのは、透き通るほどに白い肌に映える黒い髪と、身体のラインをごまかすことなく露にしている闇色のドレスと同じ黒のバンダナ。
ここまで黒で統一してしまうと、大抵陰気な雰囲気が漂うものだが、彼女の場合はさらに神秘さが増し、美しさを助長する道具の一つに過ぎないようだ。
三下には赤のバンダナ。
弧月は、紺色のものを手にして再び愛車に跨った。
「ザニーさんも待っていますから、急ぎましょう」
大きく一度アクセルをふかし、Gが待機しているであろう淵へ向う。
「わたくしたちも急がなければいけませんわね」
みそのの言葉に頷いて車のエンジンをかけた三下も、後を追った。


●淵の嘆き

淵へ続く入口に立ったみそのは、周囲をとりまく風を静めた。
どんよりと沈んだ雲、高い湿度と、林の中を廻る風。
事件が起こる気象条件の共通点がここにあると指摘した、弧月の言葉を受けてのことだ。
若干のぬかるみを帯びている地面に手をついた弧月は、Gがここへ来る前にさらに他の人間が通っていたことを知る。
「彼女たちは、もう駄目かもしれませんね」
「えぇ、この状況では恐らく……」
念入りに口と鼻をバンダナで押さえた二人は、表情を強張らせた。
「三下さん、あまり近くに来ない方がいいですよ?」
一人手間取っている三下に注意を促した弧月は、みそのを伴って淵へと急いだ。

「それにしても、“人喰い”だなんて随分面倒な名前で広がってしまっていますね、ここ」
広がる噂を止めることは容易ではない。
ましてやそれが、人の好むような話題であるのならば尚のことだ。
ぬかるむ足元に気を遣い、みそのの手を引きながら、弧月は溜息を漏らす。
「そのものと現実が見えない方には、確かに食べられているように見えるのかもしれませんわ」
「そこが、一番面倒なんですよ」
「そうですわね。けれど、そのおかげでわたくしたちは様々な現象や事件に遭遇できる……そう思うと、悪くも無い気がします」
意外な言葉を告げられ、弧月は思わず頷く。
そう、だからこの手の仕事は止められない。
自分以外にも同じような考えを持った人間がいることが、弧月には嬉しく思えた。
「俺も、この微妙なスリルと緊張感が好きなんです」
「物好きなのでしょうか? わたくしたち」
「さて、どうでし……」
突如現れた目の前の光景を見て、弧月は言葉を失った。
「柚品さま?」
途切れた会話と動きを止めた弧月の様子に気付いたみそのは、意識を前へと集中させる。
駆け寄る足音と共に、弧月の言葉が続く。
「気を失っているだけ? もう一人は!?」
首筋に残る鬱血した指跡を見つけたが呼吸があることを確認した弧月は、独り言のように呟くと自分の口と鼻を覆っていたバンダナを外し、少女の顔を覆うように付けると傍を離れる。
「海原さんっ! 俺はこっちを見ますから、あとはよろしくお願いします!」
霧が出ているかのように視界を覆う黄色味を帯びた空気を振り払いながら、後方にいるみそのに声をかけると、弧月は注意深く淵へと足を踏み入れた。


●風と淵の思い

「また一人、そちらの世界へ連れ込ませてしまいましたね……」
きつく結んでいたバンダナを外し、祈りを捧げる姿をしたまま、みそのは静かに語りかける。
たとえその目で現場を見ることが出来なかったとしても、みそのには語りかけられるもの、操れるものが多く存在するため、事情を知るのは安易なことだった。
淵にはもう一人の少女がいると言うことも、それが既に生きているものではないと言うことも……。
「これ以上苦しまないように……。あなたを解放して差し上げます」
優しく――、おさなごに諭すかのように。
淵の水面がかすかに揺れ、みそのに言葉を返す。
会話を遮るようにざわめく林の中を駆け巡る風には、口調を幾分強めた。
「風よ……全てを浄化させなさい。滅びるべき種にはその道を。あるべきものにはその姿をとらせるのです」
みそのの言葉を受け、それまで同じ場所を循環し、霧状の粒子を淵の周辺に集めていた風は、いっせいに四散する。
淵を隠すように生い茂っていた木々たちは、切り揃えられたかのように背丈を低くし、閉鎖的な空間だったそこに光が差し込んだ。
その光を受けた途端、散らばっていた辺りの霧は全て消え去った。
「人や精霊を苦しめるためだけに存在するものは、よくありませんわ」
右手を宙にかざし、白く細い指の先にいる風にそう告げると、それらは再び四散した。
光を浴びたため蕾を閉じてしまっていた藤紫色の花ひとつひとつを取り囲み、次第に範囲を狭めていくと植物は姿を小さくしていき、ついには地面に張っていた根そのものから姿を消してしまった。
続いて淵の上を通り抜けた風は、泥に塗れていた水をろ過されたかのように透明なものに変化させた。
辺りは数分前までとは全く様相を変え、空には雲がかかっていたが、柔らかな風と光が差し込む場所になっていた。
人喰い淵と呼ばれていた場所は、もはや淵と呼ぶのすら相応しくないほど澄んだ池に変わっている。
【深淵の巫女よ……世話になったな】
老婆のような声が周囲に響いた。
「お役に立てて良かったです。淵の主さま」


●淵の真実と外来植物

「大丈夫ですか? お二人とも」
水面から顔を出したままの弧月とGに向って、みそのはゆっくりと声をかける。
「えぇ、俺は大丈夫です」
「…………」
予想していた通り対照的な反応が返ってきたことに笑みを浮かべた。
「とにかくこちらへ。例のものは全て排除しましたわ」
少女の死体を手にしたままのGは、マスク越しに低い声を発した。
「例のものとは……何だ」
透き通った水と光は性にあわないようで、幾分機嫌が悪そうな口ぶりだ。
途中から別行動をしていたGに、“人喰い淵”の由縁を話していなかったことに気付いた弧月は、死体を譲り受けながら説明をする。
「ここの淵周辺にだけ生息している、外来種の植物があったんです。湿度が高く曇りの日……ちょうど今日のような陽気の日に開花して、特有の花粉を風に乗って辺りに運ぶ。この花粉が人体に入り込むことによって、幻覚作用が起きていたんです。俺が考えるに、この花粉が人間の脳の恐怖を司る部分に何らかの刺激を与え、個人にとってもっとも恐ろしいと思えるものを見せていた。その恐ろしさに気が動転した人たちは、そのまま淵に転落をして溺死したのではないか……と。あくまでも推測に過ぎないのですが」
斜面に生えている木に捕まり、死体を地面へ引っ張り上げて弧月は淡々と語る。
「それで、海原さんには淵の浄化と植物の排除をお願いしました」
「そして、ザニーさまが彼女を助けてくださったんですのね?」
にっこりと微笑んだみそのは、Gが助けた少女の傍に腰を下ろしながら、静かに問い掛ける。
二人の視線を感じたGは背を向けた。
「事情はわかった。その女は、殺す理由がなくなっただけだ……」
長居は無用と言わんばかりに歩き出す。
弧月が気を失っている少女に視線を落として再び上に向けたときには、Gの姿は忽然と見えなくなってしまった。
「不思議な方でしたね。ザニーさま」
「……そうですね」
残された少女と、泥に塗れた少女の遺体を見つめながら、弧月は警察へと連絡をする。
「後は、一般の人にお任せしましょう」
天候はいつのまにか夕焼けの茜色が広がるほどに回復しており、彼らが立去った後の淵には、柔らかな空気が取り巻くばかりであった。


●終焉

「……というわけでして、今回は心霊現象とは少し違ったものでしたわ」
テーブルに置かれた陶器のカップに入れられた紅茶を口にしながら、みそのは依頼主に報告をしている。
彼女の横には弧月が腰を下ろしており、その横には三下の姿もあった。
「で、三下くん。その植物とやらの写真や、現場の報告書、当然出来上がってるんでしょうね?」
「あ……あのっ!!」
「ね!?」
蛇に見込まれた蛙。
まさしくその言葉が相応しいと思える状況を不憫に思った弧月は、三下の行動をフォローする。
「俺があまり中に入ってこない方が良いと言ったんです。幻覚でも見られて淵に入られたらかなわないので」
「確かに、彼ならやりかねないわね。人選ミスだったかしら、やっぱり……」
額を押さえ苦悶する麗香と、冷汗を浮かべている三下の様子はいつものことで。
アトラス編集部の今日は、やはりいつもと同じ光景なのであった。




[呼び寄せる淵・終]



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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1388 / 海原みその / 女性 / 13 / 深淵の巫女】
【1522 / 柚品弧月 / 男性 / 22 / 大学生】
【1974 / G・ザニー / 男性 / 18 / 殺人鬼】

(整理番号順)

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