愛すること。
 信じること。
 愛されること。
 信じられること。
 互いの気持ちが通じ合うには、言葉以外に方法はないのだろうか。
 確かめるには、言葉が、必要なのだろうか……。


 食べきれないほどに並べられた料理は、どれも美味しいものなはずで。
 グラスに注がれた濃い赤紫色のワインも、極上のものだ。
 麻澄の希望通りに、瑛は行きつけの料理店に足を踏み入れた。
 にこにこと笑顔を絶やさない麻澄を見て、自然と瑛の表情も晴れやかになった。

 店の扉を開けると春独特のほのかに暖かく強い風が吹いていた。
 押し返されそうになるドアを押さえながら麻澄が通りに出ると、夕刻と同じ霧雨が肩を濡らす。
「傘、どこかで買うか?」
 少し気にしながら、瑛は麻澄の隣にやってくる。
「大丈夫。シャワーみたいで気持ちいいくらい」
 外灯に照らされて降りてくる雨を仰でいる麻澄は、軽い水滴を顔に受ける。
「風邪ひくなよ?」
 目を閉じている麻澄に向かって、心配そうに声をかける。
「隣に、優秀なお医者様がいるから」
「今は勤務時間外だからな」
「なにそれ?」
 コートの裾をなびかせて、麻澄が大きな笑い声を上げた。
 大通りから少し外れたところにあった店から出た二人は、駅に向かって歩いていく。
 雨に濡れながら歩く二人の姿を見ると、すれ違い様に会社帰りのOL達が小さな声で囁いた。
「あの人凄い綺麗じゃない?」
「え!? どの人?」
「うそー。見えなかった!」
 悔しそうに振り返る彼女たちの言葉が麻澄にまで届くことは無かったが、瑛は微苦笑を浮かべて、前を行く麻澄の後姿を見つめた。
 自分の顔がどれだけ人を惹きつけるか、これっぽっちも考えていない。
 おまけに性格はどこか抜けたようなところもある。
 どこか放って置けないからこそ、麻澄と出会う以前から螢が麻澄の傍についていてくれたことに感謝をしている瑛だった。
「他に行きたいところはあるか?」
 麻澄の願いならば、どんなことでも叶えてやりたい。
 ようやく二人になれる時間ができたからこそ、その思いは強くなる一方だ。
 だが瑛の言葉に対して、以外にも麻澄の答えは簡単なものだった。
「ん……? ないよ」
「映画は? この前観たいって言ってたのがあっただろ?」
 ――この前って、何ヶ月前の話をしているのか……。
 半年も前に封切りになった映画は、既に公開を終えてしまっていた。
「あれ、前に一人で観ちゃった」
 気を遣っていることを感じた麻澄は、その言葉だけでも嬉しかった。
 だが、ここで甘えてしまえば自分から話をつけることなど到底出来そうにない。
 引きずられる心を必死でセーブしながら、麻澄は告げるべき言葉を選んでいた。
「欲しいものは?」
 頭を大きく左右に振る。
 止まることなく歩き、麻澄は瑛の言葉に首を振るばかりだった。
「じゃあ、久しぶりに俺の部屋に泊まって行くか?」
 その言葉に、麻澄はついに足を止めてしまった。
 店を出てからはじめて、瑛と向き合うようにして顔を見合わせた。
「ううん。行かない」
 抑揚の無い声で言われた瑛は驚き、麻澄の顔を食入るように見つめてしまう。
 なにを思い、考えているのかすら分からない表情だった。
 つい先程まで笑っていたとは思えない、そんな面持ちをしている。
「麻澄?」
「もう、どこにも行かないよ」
 意味のつかめない言葉に、瑛は怪訝そうな顔をした。
 暗い影のよぎった瞳が、麻澄の心の内を無言で語っている。
「瑛とは、どこにも行けない」
「麻澄、お前なにを言ってるんだ?」
 立ち止まったまま深刻そうな表情で会話をしている二人に、通り過ぎていく人たちが興味深げな視線を投げかける。
 しかしそんな他人に構っていられるほど、瑛も麻澄も余裕などない。
「充分楽しかったから……」
 大粒の雨が、麻澄の肩に一粒落ちた。
 数秒と経たないうちに、霧雨から本格的な雨へと変わっていく。
 傘を持っていなかった人々は慌てて店先の軒下に入り、雨が小降りになるのを待とうとしていた。
 髪から水滴が落ち、麻澄の頬に伝わる。
 思いのほか、雨が冷たく感じた。
「馬鹿なことを言ってないで、いいからひとまずどこかに入ろう。雨が強くなってきた」
 麻澄の肩を掴んで、瑛は自分の方に引き寄せた。
 抱きしめられた瑛のコートからは、水分を含んでいるせいかいつもよりも強く香水の匂いが広がった。
 馴染んだその匂いに、愛おしさに、麻澄は眩暈を感じそうになる。
 触れられた手の温もりに慌てて手を引くと、力いっぱい両手で瑛の胸を押し返した。
 その反動で身体が大きくよろめく。
 赤煉瓦の敷き詰められた通りは雨に濡れたために、ひどく滑りやすくなっていた。
 交通量の激しい道路に麻澄の身体が投げ出される。
 耳を劈くようなクラクションが後方から響き渡った。
 急ブレーキをかける乗用車と麻澄の距離は、十メートルも離れていない。
 背筋を粟立たせるような嫌な音に、近くを通っている人たちが一斉に足を止めて振り返った。
 時を同じくして、あちらこちらから悲鳴が上がる。
 白の乗用車のすぐ後ろには大型バスが迫ってきていた。
「麻澄っ……!!」
 手にしていたカバンを放り出し、瑛は麻澄の手を取ろうとしたが、指先が触れ合っただけで麻澄の身体は未だ倒れ掛かったままだ。
 とっさに身を乗り出し、瑛は麻澄を抱きしめるようにして車の進行方向に自分の背を向けた。
 身動きができないほどに麻澄の頭を強く抱きしめ、胸の中に抱え込む。
「絶対に動くなよ」
 バスの運転手が前方の状況に気づいたのが遅かったために、止まりかけていた乗用車を後ろから押し出す形になってしまう。
 速度を落とすことのないまま、二台の車が二人を巻き込んでいった。
 周囲に鈍い音が響き渡る。
 その光景を見ていた何人かの人達が慌てて携帯電話を取り出し、救急車を要請する電話をかけた。
 バスの乗客、運転手はもとより、周りの店先から出てきた大勢の人達が事故現場に群がる。
 野次馬根性よりも、巻き込まれてしまった二人の安否を気遣っている人の方が多かった。
 身動きひとつしない二人に、心配そうに声がかけられる。
「救急車は!?」
「血が凄いのよ! 誰かお医者さんはっ?」
 瑛の背中から流れ出る血を案じ、一人の女性が自分のコートで瑛の背を押さえた。
 身体にのしかかる重さに、気を失いかけていた麻澄は意識を取り戻す。
「下の人が動いてるぞ!」
 三人もの男が瑛の身体を慎重になって抱え上げ、静かに地面に横たえる。
「大丈夫!??」
 瑛の傍らにしゃがみ込んでいた女性が、麻澄の様子を伺った。
「っ……!」
 その右足に激痛が走る。
 手を這わせると、膝から下がおかしな方向に捻じ曲がっていた。
 立ち上がることすらできず、麻澄は女性の足元にいる身体に視線をずらした。
「よ、う……っ?」
 血まみれのその姿は、誰のものだろう。
 混乱しかかっている麻澄の頭の中では、信じたくない、認めたくない思いが交錯していた。
「彼、あなたをかばったまま、意識失ってるみたいなの」
 目を見開いた麻澄は、瑛の傍に近づこうと身体をひきずる。
 手をついたアスファルトには、水に混じって流れてきた血が広がっていた。
「動いたら駄目よ! あなただって怪我しているじゃないっ」
 止める女の言葉など、麻澄の耳には届いていなかった。
 足の痛みよりもなによりも、目の前の状況が現実とは思えない。
 自分が瑛の手を振り払ったせいで。
 大人しく瑛についていかなかったせいで。
 母親の話を断らなかったせいで……。
 おびただしい量の血は、ほとんどが瑛のものだ。
「な………で……?」
 後ろ向きで麻澄をかばうことで、背中が衝撃を和らげたのは事実だった。
 麻澄の上半身には、奇跡的とも言えるほどに傷が無かった。
 なによりも大事な頭部と腹部などの臓器をかばうことだけを、瑛は咄嗟ながらに考えていたのだ。
 横たわる瑛に掛けられたコートは、血液を含んで黒ずんだ色になっている。
 出血によって瞬く間に蒼白くなっていくその顔を包む込むように抱きしめると、麻澄は叫び声を上げた。
「どうして……っ!?」
 涙と雨が頬を濡らし、血と雨が服を汚す。
 遠くから聞こえてくるサイレン音が、ひどくゆっくりと麻澄の耳に入った。
 間際に聞いた瑛の声が、麻澄の頭の中で何度も繰り返す。
『大丈夫だ。麻澄……』
 排水溝に向かって流れていく赤い水が途切れることがない。
 きつく閉じた瞳を開けることなく、麻澄は瑛に重なるように倒れ込むと意識を失ってしまう。
 雨が全てを洗い流してくれたら……。
 そう願うことすらもできずに、麻澄は深い闇の中に吸い込まれていった。



「君に声が届くとき」――第一章・完





君に声が届くとき(10)をお届けいたしました。

うーん。約2年程前に書いたものですが、あまりブランクを感じないのは、
常日頃からこの子達のことを考えているからでしょうか(^^;
まぁ、オリジナルノベルということもあるので、
あまり続きを待っていらっしゃる方もいないとは思いますが、
今年はこのシリーズの続きを、なんとかして書いていこうと思っております。

さて、この第10話で第一章は終了となります。
別館でもさんざん語っていたことですが、
この終り方はこの話を書き出す前から決めていたことでした。
イメージはやはり、BSBのあの曲のPVですね…。
霧雨の中のバスのシーンなどは、ここぞというところで使わせて頂きました。

それでは、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
引き続き、瑛と麻澄が出会うきっかけを描いた、
「Heartstringsシリーズ」をお楽しみいただけると幸いです。



2004/2/11



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