前髪を掻きあげられる手の感触に、麻澄は重い瞼を上げる。
「ん……だれ……?」
 足元から差し込む眩しい朝陽に邪魔をされ、相手の姿が見えない。
 ベッドヘッドにもたれかかる様にして起き上がろうとする麻澄は軽く額を押され、再び柔らかな羽枕に埋もれた。
 少し冷たいその指先がそっと頬に降りる。
「大丈夫か?」
 低い心地のよい声に思わず麻澄は息を呑んだ。
「っ……瑛!?」
 一体どうしてこんなところに瑛がいるのか。
 信じられないといった表情で頭を振る麻澄を見つめると、瑛は小さなため息をつく。
「その様子じゃ、昨夜のこと全く覚えていないだろう?」
 多少責める口調で言い聞かせるが、怒っている様子は全くない。
 瑛の手をとりながら、麻澄は恐る恐る聞き返す。
「昨……夜……?」
 片目を眇めて聞き返す麻澄の記憶に残っている最後は、一人文句を言いながら数杯の酒を飲み干したところまでだった。
 十一時過ぎに来たが、何度チャイムを押しても出なかったところからはじまり、酔い潰れている麻澄の面倒を最後まで見たこと、真夜中にうなされながらトイレに起きてきてその場で倒れそうになったこと。
 それらを淡々と、瑛は言い聞かせた。
 自分の失態に麻澄は身が縮こまる思いでいだった。
「ごめんなさい……」
 肩を力なく落としてひたすら謝った。
 すっかり元気をなくしている麻澄を見て、さすがの瑛もこれ以上事を蒸し返すのはやめる。
「もう、無理な飲み方はするんじゃないぞ。あのままだったら、意識障害起こしてたところだ。わかったらほら、シャワーでも浴びて来い。身体は動かせるだろう?」
 瑛は少しだけ開いていたカーテンを全開にすると、朝の風を入れるために窓も開けた。
 言われて気付いた麻澄だったが、あれだけの量を飲んだにも関わらず不思議と頭痛はなかった。
 まさか瑛が、指まで突っ込んで吐かせたとは思っていない麻澄だったので、少し疑問に思ったがゆっくりとベッドを降りる。
 ただ、喉がヒリヒリするのは気のせいだろうか?
 それも飲みすぎの代償か……自分自身に言い聞かせ、バスルームに入っていった。



 少し熱めのお湯が張ってあるバスタブに浸かりながらゆっくりと息をつき、淵に両腕を乗せてうつ伏せる。
 ポタポタと、額と言わず顔中から汗が流れ落ちた。
「全然気付かなかった。瑛が家に来てたなんて……」
 瞳を閉じてポツリと独り言を漏らす。
 しかも、夜中にも起きたって!? そこまで迷惑をかけてながらも瑛がいることすら覚えてなかったなんて、呆れて怒られても仕方ないよな。
 麻澄にしてみればそこまで醜態を曝すほどに、瑛が来てくれなかったことがショックだったのだが、今、実際目の前にいたのは瑛本人に間違いはなく。
 最悪だよ……思いっきり、拗ねて自棄酒飲んでたのばれてるじゃん。
 また、自分ばかりが空回りをしている焦燥感に捕らわれてしまう。
 落ち込んだ気分で浸かっているところに、突然のノックと共に瑛が姿を現した。
「っ……なっ、なに? 突然っ……」
 ズルッと湯の中で滑り、湯船に頭まで浸かりそうになる。
 今更裸を見られて困るような関係でもなかったが、状況が状況なだけに、突然こういう風に来られると麻澄も言葉を失ってしまう。
「あぁ、ちょっと聞きたいことがあって……って、なにをやってるんだ、麻澄」
 鼻から少量の水を吸い込んでしまい咽ている麻澄を怪訝そうに見ながら、瑛は更にドアを開けた。
 朝から、それも浴室という狭い場所では決して迎えたくない状況になるのを危惧し、瑛をこれ以上中へと入ってこさせないよう、慌てて聞き返す。
 それも、ギリギリ首まで浸かりながらである。
「き、聞きたいことってなに?」
「朝食、コンロにのっているやつを温めていいんだろ?」
「あっ……朝ごはん? いいよ」
 麻澄の返事を聞くと瑛は黙ってドアを閉めてリビングへと戻っていく。
 閉じられたドアを見て、変な勘違いをした自分を恥じながらも、ふと言い忘れたことを思い出した。
「瑛、ごめんっ! 冷蔵庫に煮物も入ってるからレンジで温めておいて」
 少し大きな声でキッチンにいる瑛に聞こえるように言ったつもりだったが、全く聞こえていないようだった。
「なんだって?」
 壁を隔てた部屋の向こうにいる瑛の声が、微かに聞こえてくる。
「冷蔵庫に煮物が入ってるから温めておいて、って言ったの!」
 今度はドアを開けてしっかりと聞こえるように言ったその瞬間、サラダを片手に持ったままの瑛が現れ、麻澄は運悪く全裸のまま鉢合わせする羽目になってしまった。
「…………っ!」
 とっさに横にかけておいたバスタオルを引っ掴み、慌てて中に逃げ込む。
「なっ……なんでこっちに戻ってくるんだよっ!」
 照れ隠しに思いっきり怒鳴りつけ、瑛を責める。
「朝から随分と扇情的な格好だな、麻澄」
 クスクスと笑いながら、閉じられてしまったドアへと近づいていった。
「む、むっ……向こうに行ってろってばっ!」
「どうしようかなぁ」
 可笑しくて堪らないといった表情で、瑛は麻澄をからかう。
「一緒に入るか?」
「いい加減にしないと、水引っ掛けるからな!」
 笑えない冗談に対して声を荒げて言い返すと、閉めていたドアが強引に開かれた。
 麻澄は驚いて一歩後ずさり、シャワーのノズルを前に向ける。
 だが、そこに現れた瑛はきちんと衣服を纏っていた。
 瑛の性格であれば、この状況を見逃すはずはないのだ。
 間違いなく風呂場に入ってきて、いかがわしいことをされると思っていただけに、麻澄はわずかに毒気を抜かれる。
「驚いた?」
「ふっ……ふざけるなよっ。いいから早く、朝ごはんの準備しろってば!」
 真っ赤に頬を染めて瑛を睨みつける。
 そうなることを無意識の内に危惧してしまっていた自分自身に対して、恥ずかしくなった。
「はいはい。わかったから……お前も早く上がって来いよ」
 毛を逆立てた猫のように警戒している麻澄を愛しげに見つめて言うと、瑛はようやくバスルームから姿を消した。



 濡れた髪を拭きながらコーヒーの香りが漂うリビングに向かうと、すっかり準備の整ったテーブルの上には、昨夜、麻澄が手間隙かけて作った料理の品々が、日の目を浴びているところだった。
「やっと上がってきたのか? ほら、早く座って」
 促されて椅子に座り、キッチンからやってくる瑛を待つ。
「ありがと……全部やってくれて」
「どういたしまして」
 コトンとコーヒーカップをを置き、瑛も麻澄の前に座った。
 不意に会話が途切れ、聞こえるのは瑛がコーヒーを嚥下する音だけになった。
 妙に静かな空気を切るように、明るく麻澄は話を持ちかける。
「時間、大丈夫なの? もう八時だよ」
 同じようにコーヒーを飲みながら、めずらしくゆっくりしている瑛に問い掛けた。
「ん? ……今日は休みなんだ」
「えっ!? 休み?」
 滅多に休みなどないはずなのに。
 麻澄はひとり思った。
 出会って五年、研修医の頃から数えても、これほどゆっくりとした朝を迎えることはめずらしかった。
 というよりも、麻澄の部屋でこうやっていること事体がはじめてのことだった。
 逢う場所と言えば、病院の近くのシティホテル、どこかのレストラン、ごく稀に瑛の自宅であったり。
 思えば一日時間を共にしたことすらない、麻澄と瑛なのだ。
「なんか急用でもできたの?」
 温めなおしてある料理が冷めないうちに食べはじめる。
「あぁ。急用……といえば、急用かな」
 ちらりと麻澄を見遣り、ひっかかるような言い方をされ、いつもの瑛らしくない物言いに食べる手を休めて麻澄は聞き返した。
「なにか、嫌なことでもあった?」
「いや、なにもない」
 即座に言い返されてしまうが、やはりどこか普通の感じとは異なる様子だった。
「もしかして、昨夜のオレのせいで病院からの呼び出しに行けなかったとか……?」
「そんなんじゃないよ」
 苦笑しながら言う瑛の表情は心なしか暗い。
「だったら……」
「食べ終わってから話すから、この話はここまでだ。いいな?」
 なおも聞き出そうとする麻澄を制するかの様に、瑛は口を開いた。
 有無を言わせぬ口調で言われてしまっては、これ以上尋ねるのは無理なことだった。
「……わかった」
 静かに答えて再び箸を取る。
 話題が変わってからの瑛の様子は普段とさほどかわりなく、先程の表情がまるで嘘のようだった。
 だが、麻澄の脳裏にはあの思いつめた瑛の顔つきがちらつき、消えることはなかった。



next.....「君に声が届くとき(5)」





三人称視点で書いているにも関わらず、
瑛の一人称になりかけたり、麻澄の一人称になりかけたり。
「ただ書いていた」ということが現れているな…と、今回改めて感じました。
ストーリーには影響はない程度に、この回も大幅に加筆訂正しております。
それでも、違和感があるところはあるのですが…(^^;
また、時間を見て修正していきたいと思います。

2004/2/2



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