夏休みも終わり、長期休業明けの実力模試の期間をようやく終えた九月も上旬の終わりごろ。
 三年の先輩たちが抜けた部活では、俺たち二年が主導となって新しい体制がしかれはじめていた。
 先輩たちに気兼ねすることなくバスケットコートを使えるようにはなったものの、呑気に浮かれている間もないくらいすぐ側に、秋季大会が迫ってきている。
 そんな中ではあったが、いつも通り放課後の部活を終え、一人仲間たちとは別に部室を後にした俺は、人目につかないよう日暮れ間近の校庭を横切って理事長室のある管理棟に向かった。
 多くの職員はもう学校を後にしている時刻になっていて、職員室も出入り口の蛍光灯がうっすらと灯っているだけで、人がそういるような気配はない。
 隙を狙って階段を一気に駆け上ろうと右足に力を入れた瞬間、俺は左肩を勢いよく掴まれて、反動で背後の人物の胸の辺りにしたたかに頭を打ち付けてしまった。
「っ……痛え」
「おい、尋貴。まだ学年主任が残ってるんだから、注意しろよ」
 決して背の低い俺ではないが、そんな俺よりもさらに頭一つ上のところから降ってきた声に、思わず驚いて心拍数が急上昇した。
「雅典さん、まだ残ってたのかよ……。驚かすなよな」
 薄暗い廊下で遭遇したのは、社会科教諭の上村雅典さんだった。
 教師に対してなぜ“さん付け”なのかという話ではあるが、彼は死んだ親父が昔家庭教師をしていたときの教え子だったのだ。
 高校受験から大学受験までの間だから、雅典さんが中二の頃からの付き合いになる。
 まだ小学生だった俺と千春のことを、その頃からずっと可愛がってくれていた。
 もちろん、俺たちが理事をしていることを知っている、数少ない学園関係者の一人だ。
「いや、忘れものをしてな。取りに戻ってきただけだ」
 俺の顔の前に手にしていたバインダーをかざすと、視線を職員室へ向ける。
 こんな時間に生徒が管理棟にいること自体、咎められる理由になってしまう。
 部活終了時刻はとうに過ぎているのだ。
 だが俺は、思いがけず遭遇した雅典さんを前にして、どうしても気になっていたことを聞かずにはいられなかった。
「なあ、雅典さん。牧嶋杏子のことなんだけどさ」
「ん? 転任してきた、あの彼女のことか?」
「うん。あの人さ……雅典さん、前に見かけたことない?」
 自分で言っておいて、おかしな質問だとは思う。
 思ったけれど、やっぱり気になることに変わりはなかった。
「いや、俺はここではじめて見た顔だけど。……なんかあったのか?」
「別にっ、そんなんじゃないんだ。ただ、写真を見たときからなんかひっかかっててさ」
 好きとかそういう感情ではなく、ただ、どこかで見たことがあるのに思い出せないという、そんな感情があるだけなんだ。
「来週歓迎会があるから、そのとき軽く探りでも入れといてやるよ。男がいるのかとかも」
「ちょ……! だからそんなんじゃないって言ってるだろ」
「ま、なかなかの美人だし気になるのも無理はないけどな。だが、お前がそんな調子だと千春が嫉妬するぞ。あいつの性格はお前が一番分かってるだろ」
 勝手な思い込みを付け加えられたのには正直苦笑が漏れたが、千春の件に関してはまさにその通りなだけに、ぐうの音も出ない。
 もともと気まぐれな性格をしている千春だが、自分にとってある程度親しい人物の気が、必要以上に他人に向けられることを酷く嫌がるのだ。
 それは多分、まだ小さかった頃に両親を失って以来、千春にとって親しい人物がさらに自分から離れていくことを恐れているからではないかと、俺は勝手に思っている。
 雅典さんからしてみると、そんな千春の行動は子供じみたものにしか見えないのだろうが。
「そんな話はさておき、今から仕事だろう? 主任にはくれぐれも気をつけろよ。見つかりでもしたら言い訳が大変だからな。俺も厄介なことになる前に、早いとこ退散するよ」
「わかってる。じゃあ」
 手短に必要な会話だけを済ませた俺は、遠ざかっていく雅典さんの背を見送りつつ、今一度、学年主任の姿が見えないことを確認すると、今度こそ一気に階段を駆け上がった。


 職員室があるフロアの一つ上、三階には事務室がある。
 もちろんこの時間にもなれば、当然人がいるはずもなかった。
 そのまま四階へ進もうとしていた俺だったが、事務室のドアの隙間から、僅かな明かりが漏れているのが目についた。
 鞄に手を入れて携帯の液晶画面を確認すると、時刻はすでに七時を回っている。
 通常事務室は六時にはすべての業務を終了させているはずなのに、なぜ。
 しかも、明かりは部屋全体を灯しているのではなく、部屋の奥のほうだけつけられているようで、ぱっと見ただけでは誰かがいるとは気づきにくいほどだった。
 足音を忍ばせ、息を殺しながら事務室に近づいた俺は、音を立てぬように静かに身を屈めたまま、スライド式のドアを少しだけ開く。
 暗がりの中、事務室の奥にある膨大なファイルが収納されている棚の前には、一人の女の姿があった。
 形の良い大きな胸を隠すように羽織ったカーディガン。
 センタープリーツのスカートは、いつもあの人が着ているスカートと同じような膝丈の長さのものだ。
 机が邪魔をして、相手の顔がちょうど隠れて見えない。
 俺はさらに息を殺しながら、ドアをもう少し開いて中の様子を窺うことにした。
 露草色のファイルを開き、中の書類を熱心に読んでいる。
 その色のファイルは、卒業生の個人情報が書かれているものだ。
 いったいなんの必要があって、こんな時間にそんなものを隠れて見ているのだろうか。
 緊張で喉が妙に張り付いてくる。
 一度、唾を飲み込んで、相手の顔を見るために事務室の中に一歩踏み込んだ。
 茶色の大ぶりなリボンで巻かれた、緩くウェーブのかかった長い髪。
 細い指先で書類をめくりながら、頬にかかる横髪を耳元にかきあげた瞬間、俺ははっきりと人物の顔を見ることが出来た。
 ――牧嶋、杏子。
 数冊のファイルを棚から引っ張り出してはページをめくっていた彼女だったが、あるところを開いたまま動かなくなった。
 なにやら真剣な面持ちをして、卒業生のデータを読んでいる。
 その中から一枚の用紙を取り出した彼女は、こともあろうにコピー機にかけはじめた。
 機密事項の個人情報を、だ。
 よっぽど声をかけ、止めさせようかとも思ったが、まず彼女の目的がなんなのかを突き止めることが先決だと判断し、そのまま様子を窺うことにした。
 コピーを終えた数枚の紙を束ねた彼女は、版元のファイルを元の場所に戻すと、机上の明かりの電源を落として俺のいるほうへとやってきた。
 焦った俺は急いで机の下に潜り込み、彼女が事務室から出て行くのを見届けた。
 遠ざかっていく足音がようやく消えたのを確認すると、俺は問題のファイルがあった場所へと向かったが、その棚にはすでに鍵がかけられており、どうやっても開けることが出来なかった。
「くそっ……。いつの間に鍵まで手に入れたんだ」
 牧嶋杏子の用意周到さに、たまらず舌を巻いてしまう。
 これ以上この場にいたところで、鍵を持ち合わせていない俺にはどうすることも出来ないことだけははっきりしている。
 彼女の行動と自分の中に引っかかり続けている思いにさらなる疑問を深めながら、俺は事務室を後にした。 


 階下にいる学年主任のことなんかよりも、牧嶋杏子のあの不可解な行動に気をとられながら、俺はようやく当初の目的だった理事長室へとたどり着いた。
 陽もとうに暮れ落ち、窓の外は濃紺の闇だ。
 ノブに手をかけて扉を開けた途端、中にいた千春が、それはそれは不機嫌そうな声をあげた。
「遅い、遅いっ、遅いっっ!! いったい今、何時だと思ってんのよ!!!」
「悪い。ちょっと気になるものを見かけて、様子を窺ってたんだ」
 間違いなく外に漏れたであろう千春の大声に慄きながら慌ててドアを閉めた俺は、鼻息を荒くしている千春に潔く謝ったものの、勢いよくソファから立ち上がってなににも言わぬまま真っ直ぐに俺の前に来た千春は、大きな瞳をさらに大きくさせ、俺の顔を覗きこんできた。
「気になるもの? この私に雑務を押し付けておきながら、よくもそんなことが言えるわね。いったい、なんだって言うのよ。え?」
「……別に、たいした用じゃないよ。でも、ごめん。遅くなった」
 今のこの状態の千春に牧嶋杏子の話など持ち出そうものなら、いったいどんな惨事が起こるか。
 そう思ったからこそ、あえて曖昧な物言いをした俺だったが、その言い分が気に食わなかったらしい。
「もういい! 今日は帰らないからっ!!」
 俺の顔を睨みながら横を素通りした千春は、捨て台詞を残してドアが壊れるかというほどの勢いで閉めると一人出て行ってしまった。
 ――帰らないってどうせ、雅典さんのところにでも行くんだろ。
 ったく、雅典さんもあれで千春のこと大概甘やかしすぎなんだよな。
 どうせ千春の言われるままに一晩中付き合わされるんだ。
 千春が誰と寝ようと俺の知ったことじゃないが、その後雅典さんに色々言われる俺の身にもなれよ。
 なんてこと、直接千春に言ってやれたらどれだけすっきりするのかとも思うが、一応弟としてそれを言ったら千春が傷つくかもしれない……などと思うので、こうやって一人悪態をつくばかりだ。
 机の上にそろえられた書類に軽く目を通してみると、今日やらなければならなかった仕事は全部片付いているようだった。
「あー。これはさすがに、悪いことしたかな」
 少しだけ、千春に罪悪感を覚えつつ、部屋の明かりを落とした俺は、誰もいないであろう自宅へと帰ることにした。

「一晩私が帰らなくったって、尋貴はなんの心配もしないわけねっ!?」
 翌朝、学園の下駄箱で顔をあわせるや否や、千春はめずらしく人目もはばからずに俺に対して怒鳴り声を上げた。「心配って、だって雅典さんのところにいたんだろう?」
 対して小声で千春の耳元で声をそばだてて言う俺だったが、千春は嫌そうな面持ちで俺から離れると、瞳を揺らして俯いた。
「……知らないっ!!」
 またしても捨て台詞を残して、千春は俺に背を向けると走って校舎の中へと入って行ってしまった。
 連絡をしないのなんていつものことなわけだし、今更、なんでそんな理由で怒るのかが分からない。
 そもそも、自分から帰らないと宣言しておいて、連絡をしなかったからへそを曲げるだなんて勝手にもほどがある。
 確かに、昨夜遅くなったのは俺が悪かったけれど、さかのぼれば千春の機嫌が悪い最大の原因は牧嶋杏子にあるのだ。
 別に俺があの人のことが好きで、千春をないがしろにしているわけでもないのに、あの怒りようは正直納得がいかない。
 どうせ気分屋の千春のことだから、しばらく放っておけばそのうち、寂しくなって自分から話しかけてくるに違いない。
 そう結論を出した俺は、姉弟喧嘩の行く末を面白そうに見ている奴らの合間をすり抜けて、教室へと向かった。



 いつもとなんら変わりない昼休みのことだった。
 俺は、やはりいつものように軽く医務室のドアを叩くと、返事を聞くまもなく扉を開いた。
「まどか先生ー、喉渇いた」
 白いカーテンが張られた衝立の後ろにいるであろうまどか先生に訴えた俺だが、小さく聞こえた女の話し声に思わず足を止めた。
 やべっ、他の先生がいたか。
 黙ったまま処置台の横の椅子に座った俺は、カーテン越しの揺れる影をなんともなしに見る。
「それじゃあ」
 言い終えたと同時に衝立の向こうから姿をあらわした人物を見た途端、俺は椅子から滑り落ちそうになった。
 なんで、牧嶋杏子がここに……。
 女同士というものはよく分からない。
 昨日は特に会話をしていたわけでもなかった二人だというのに、いつの間に。
 俺の前を通り過ぎようとした彼女だったが、瞬間、ほんの僅かであったが、俺の顔を盗み見るようにしたのを、俺は見逃さなかった。
 意味ありげな視線を投げかけるくらいならば、なにか言えばいいだろう。
 ふと、昨日の事務局での光景が甦った。
「ごめんね、尋貴くん。喉渇いたんでしょう? 今、紅茶でも淹れてくるわね」
 牧嶋杏子が出て行くなり、ベッドが置かれているほうから姿を見せたまどか先生は、急いで給湯室へと入っていく。
 俺は、なんともなしに昨日のことをまどか先生に話してみることにした。
「昨日さ、理事長室に行く前に、人気のない事務室に牧嶋先生がいたんだ。なんか、勝手に卒業生のデータを見ていたみたいなんだけど、あの人いったい何者? まどか先生、仲」
 言いかけていたそのとき、給湯室から派手な音が響いた。
「まどか先生!?」
 驚いた俺が慌てて駆け寄ると、手にしていたティーカップを派手に滑らせたのか、まどか先生の足元には砕けた白磁のカップの破片が無数に飛び散っていた。
「ごめんなさい。手が滑っちゃったわ」
「怪我はない!? どっか切らなかった?」
「ええ、平気よ。大丈夫」
 控えめに微笑むその表情は、いつもとなんら変わりない彼女だ。
 ……別に、牧嶋杏子のことに反応したわけじゃ、ないよな。
 訝る俺と屈んだまどか先生との間に妙な沈黙が広がったが、漂うその空気を破るように、ノックと共に雅典さんが顔を見せてきた。
「やっぱりな。ここにいると思ったよ」
 昨夜はやっぱり千春が泣きついてきて散々だったと、愚痴を零してくる。
「俺だって彼女がいるんだからな。そうそう千春の面倒ばかり見てらんないぞ。第一昨夜も言っただろ、千春を邪険にするんじゃないって。ご両親だって、お前たちが喧嘩しているところを見ているかもしれないだろうが」
 雅典さんのその言葉とともに、再び俺の横で破片を拾っていたまどか先生の手から、大きな破片が滑り落ち、音を立てて砕けた。
「あ……、ご、ごめんなさい、何回も」
 震える声でそう告げるまどか先生は、心なしか青ざめた面持ちをしていた。



to be continue...................





「Cruel Games」第二話をお届けいたしました。
まだ一月なのに、今年に入って二作目の更新だよ! と、誰よりも驚いているのはこの私です(^^;;

えー、前回のあとがきで、第二話は尋貴が“まどか”のとある行動を目にすると書きましたが、あれは“杏子”の間違いでした;
先ほどちょっと読み返していて気づきまして、今更ながら書き換えをさせていただいております。

さて。本編に関して少し。
尋貴と千春、雅典と千春、そして、杏子とまどかの関係。
五人の関係は微妙な位置関係を保った状況です。
雅典と千春に関しては間に恋愛感情というものはなく、ただその場に流されて身体を重ねているだけの関係といった感じではあるのですがね(^^;;
余裕があれば、杏子とまどかのやりとりのみを中心にした今回のエピソードの番外編も書きたいとは思うのですが、これは確実にあのー、18禁になりますのでご了承くださいね。

とまあ、今回はこの辺で。
次回は、杏子と対峙する千春の図というのを含めたエピソードになる予定です。
これまた、春先過ぎまでには書いてしまいたいな……とは思っているのですが、間に番外編を挟んでしまうと、初夏あたりまでずれ込む可能性もあります(^^;
いつも通り、気長にお待ちいただければと思います。

では、今回もここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。

2006/1/21



よろしければ、ご感想をお聞かせ下さい。

× △  ○ 

   
Copyright(c)2006 Koto Sasakawa all rights reserved.