いい加減情けなくなるほど、自分の中でなにかがおかしくなってることに気付いてはいた。
 朝から晩まで、空いている時間が少しでもあれば、ひたすらラケットを握っていた。
 常に身体を動かして、考える時間と気力をなくすかのように。
「もう侑士には付き合ってらんねー!」
 シャワーを浴び終えた岳人が俺の傍に来るなり、やけにでかい声で抗議の声をあげた。
 ワイシャツへと通していた腕を止め、苛立った仕草でロッカーに手をかける岳人の横顔を見遣る。
 ――こいつの言うことはもっともやな。
 そんな自嘲的な思いが込みあげてきて、奥歯をきつく噛み締めた。
 唐突に告げられた言葉に腹を立て部室から去った俺が、改めてと話をしようと思ったのは、あの日から一ヶ月が過ぎようとしていた頃だった。
 手にした携帯のたった一つのボタンを押すのに、そんなにも時間がかかった。
 そしてまた、繋がることのなかった電話に……の答えを聞くことができなかったことに、どこかでほっとしている自分がいた。
 たかが携帯に連絡がつかなかったからといって、そんなもの長太郎にでも直接聞けば、の滞在先の住所くらいなんの苦もなく手に入れられることぐらい分かってはいた。
 それなのに、それをしようとしないのは……できないのは、最後に俺に向けられた眼差しをはっきりと見てしまったから。
 言葉と裏腹の眼差しの意味を知ることが怖かったからだ。
 笑いたくなるほどに矛盾した思いが交錯する中、それ以上の行動を起こすわけでもなく、苛立ちの中で毎日を過ごしていた。
 試合のことよりものことを考えていることが多かったが、傍目には練習に勤しんでいるようにしか見えなかったようだ。
 最初のうちは――。
 そんなことがさらに一ヶ月以上続いた今日、ついに岳人が音を上げた。
 無理もなかった。
 通常の大会前のメニューに上乗せしたものをこなす俺に付き合わされていたのだから。
「気になるんだったら直接聞けばいいだろ?」
 ロッカーへ手を伸ばし乱暴に扉を開けた岳人に対し、俺が口を開くよりも早く跡部の声が響いた。
「おい」
「んだよ。跡部だってそう思うだろー? 侑士って絶対の件があってから無茶苦茶だよ。ここ一ヶ月は特にそう。お前ら別れたんじゃなかったの? それとも侑士が一方的に振られたとか? あー分かる気がするー。それでむしゃくしゃしてるんだろ」
 あまりにも的を射た発言に、返す言葉もなかった。
「岳人っ! お前ふざけたこと抜かしてんなよ」
 むしろ俺よりも怒りを露にした跡部に驚いた。
「跡部先輩っ!!」
 咎める跡部をさらに諭すかのように、長太郎の大声が響く。
 自分のことで他のメンバーまで揉めさせるわけにもいかなかった。
「跡部、岳人の言う通りなんやから別に気にすることあらへんで。ほんま、の一件からむしゃくしゃしとんのは事実やし。迷惑かけてすまへんかったな、岳人。俺、しばらく部活休むわ」
「忍足っ!!」
 再び響いた跡部の言葉に振り返らぬまま、俺は部室を後にする。
 実際、がいない部活など活気もなにもあったものじゃない。
 なんのためにここまできつい練習を続けてきたのか、それすら意味をなさなくなってきているような気がした。



「自分、テニスに興味あるん?」
 外周を走り終えてコートに戻ってくると、そこにはいつもの少女がいた。
 金網に指を絡ませたまま、真剣な面持ちでじっと見つめている彼女に、俺はわずかに興味を持った。
「え……私?」
「他に誰もおらんやろ」
 妙に焦っている彼女の反応が面白かったので、ストロークの練習を後回しにしてその場に留まった。
「ここんとこ毎日おるから、気になってな」
「あ、ごめんなさい。邪魔するつもりじゃなかったの。ただ、楽しそうだなって思って見てただけで」
 俺は、申し訳なさそうに謝りながら帰ろうとする彼女に、つい、声をかけてしまった。
「ほな、マネージャーでもやらへん? 俺らんとこは部員多いから人手が多いほうが助かるし」
 マネージャー希望の女なんて両手で数えきれないほどいたし、別にどうしても必要なわけでもなかった。
 それなのにわざわざ声をかけたのは、他の女と違って、ただ純粋にテニスを見ているように見えたから。
「……ありがとう。でも、私にはそういうの無理だから」
 少し困ったように眉根を寄せて小さく告げた彼女は、フェンスに絡めていた指を解いて俺に背を向けると、そのまま歩いていってしまった。
 その後、俺もたいがいしつこいなと自分でも思いながら、何度もに話を持ちかけ続け、二週間も過ぎた頃だった。
「私よりもっと熱心なマネージャー希望の子だっていっぱいいるのに。私でも、いいの?」
 二年前、“どうして”彼女のことが気にかかったのかなんて、今思えば簡単なことだった。
 掴んだら消えてしまうかのような、そんな儚い雰囲気が気になったんだ。
 今まで俺の周りにいた女たちとは全然違う空気を持った彼女――のことを。



 の姿を見なくなって、二ヵ月半が過ぎた。
 岳人と揉めたあの後、らしくもなく何度も跡部が俺を説得しに来た。
 ――とにかく、部活に出ろと。
 ペアを組むのが無理だというのなら、シングルスで出てもいい。
 そんな提案までされてしまっては、これ以上断り続けるわけにもいかなかった。
 どうして跡部がそこまでして部活に出ろと言い続けたのか。
 俺は、それから一週間後に、すべての理由を知ることとなる。

 なんのために、誰のために。
 そんな漠然とした対象も無いままではあったが、跡部に言われるまま部活へと復帰した俺は、そのままシングルスの選手として大会に参加することになった。
 休んでいた間の分も取り返さねばと、他のメンバーよりも早くに部室へやってきた俺は、ロッカーに手をかけたまま、もう何度目か分からないくらいに、のあの眼差しを思い返していた。
 あの日、学校をあとにしようとしていたを。
 跡部と一緒にグラウンドを歩いていたが、振り返り、校舎から二人を見ていた俺に気づいたときの、あの眼差しを。
 その思いをさえぎるように、突然、鞄の中の携帯が音を上げた。
「なんや跡部。ああ、今から着替えるところやけど。は? 正門前に? ちょ、待てって! いきなりなに言ってん」
 俺が言葉を挟む間もないほどに一方的に呼び出すと、跡部はすぐさま電話を切ってしまった。
「いったいなんの用があるっちゅーねん」
 開けっ放しにしていたロッカーを勢いよく閉めて、俺は呼び出された正門前に向かった。
 のんびりと歩いていると、しびれをきらしたかのように、門の方から跡部が走ってくる。
「さっさとしろよ、忍足!」
「だから、なんの用があってそんなに急かすんや」
「いいから、さっさと乗れ!」
 強引に俺をタクシーの後部座席に押し込み、続けて跡部もその横に乗り込んできた。
「急いで行ってくれ」
 それだけを告げると、運転手は跡部の言葉に軽く頷き、アクセルを踏んだ。

「二〇六号室だ」
「はあ? 跡部、お前わけわからんわ。こんなところ連れてきてなにする気や」
「いいから、早く行けよ!!」
 一時間以上もかけてタクシーでやってきた病院に着くなり、跡部はそう言って俺の背を強く押してきた。
 なんど理由を聞いたところで、はっきりとしたことはなに一つ言おうとすらしない。
 しかたなく俺は、言われたとおりに病院に入った。
 階段の踊り場にある窓からちらりと見えた正面玄関前には、じっと立ったまま険しい面持ちでこっちを見上げる跡部がいる。
「ほんま、わけわからんわ」
 呟きながら最後の一段を踏み終え二階に着いた俺は、壁に印されている表示を頼りに二〇六の部屋へ向かった。
 その部屋はスライド式のドアが固定されて全開になっていて、前には鈍い光を放つカートが一台佇んでいる。
 上には、見たこともないような名前の書かれた点滴薬の袋や注射針が置かれていた。
「姉さんっ! 目を閉じないで!!」
 どこか別世界のような現実感のない光景を遠くから見ていた俺の耳に、聞きなれた声が入ってきた気がした。
 一歩足を進めると、声がはっきりと聞き取れた。
「姉さん! 姉さんっ!!」
 続いて呼ばれた名前を、聞き間違えることがあるはずがない。
 それでも、こんなところにがいるわけがない、と、自分に大きく言い聞かせた。
 踏み込む足が、重い。
 ――なぜ、跡部はついて来なかったのか。
 ――なぜ、は電話に出なかったのか。
 ――なぜ、は俺の前からいなくなったのか。
 頭の中では一つの答えが導き出されるように、今までの不可思議な出来事が繋がっていった。
 ついたても横に押しやられ、廊下からでも中の様子がはっきりと目にすることができる。
 ベッドの前では長太郎が膝をついての両手を握り締めていた。
 奇妙なくらいに静かに、ゆっくりと、ベッドの脇に備え付けられている心電図モニタの音がした。
 その間隔は、一秒過ぎるごとにさらに大きく開いていく。
 消え入る、命の音だった。
「………………?」
 壁に寄り添って泣き崩れている彼女の両親や、長太郎を気にかけている余裕なんてどこにもなかった。
 ただ、目の前に突然つきつけられた現実に。
 夢にさえ思っていなかった、突然の再会に。
 震える声を抑えることもできぬまま、が横になっているベッドに近寄った。
「……? ……っ!!!」
 透き通るほど白い肌に、痛々しく突き刺さった点滴針。
 俺に気づいた長太郎が譲るように隣に移り、俺はさっきの長太郎と同じように膝をついて、の白い手を握り締めた。
 なんで、こんなことにっ!!!
「なにしてんねん、! こんなところで寝てる場合やないやろ!?」
 一度、二度、三度と、その肩を大きく揺すった。
 触れたの肩は、前に抱いたときよりもずっと……痩せて頼りないものになっていた。
 ピッ…………ピッ………………ピッ。
 音の間隔はさらにゆっくりと開いていく。
「約束したやないか! 海、行くって言うたやろ?」
 そっと頬に触れると、閉じていた瞼がかすかに開いた。
 小さな小さな視界の中に。
 の瞳の中に、情けないような顔をした俺の姿が映っていた。
 酸素マスクの向こうで、なにかを語ろうとしているかのようにの口唇が動く。
「喋らんでええ。喋らんでええから、だから……元気になってくれっ!」
 すがりつくようにして握り締めたの右手が、同じように小さく動く。
 目を上げた俺に、が小さく微笑んだように見えた。
……?」
 ぎゅっと、の指が俺の手のひらの中で動く。
 ――侑士、ごめんね。
 の口唇が、そう動いた。
 気のせいなんかではない……そう、確信した。
 …………ピッ………………ピッ……………………ピーーーーーッ。
 頭の奥をかき回すかのような嫌な甲高い音が、部屋に鳴り響く。
 周りにいたスタッフたちが、俺を除けるようにしてのベッドを囲む。
 ありふれた、定番文句を主治医が口にした。
 信じられなかった。
 が、この世からいなくなってしまったなどと。
 言葉が出てこなかった。
 そして、ただ、涙が……止まらなかった。
 動かなくなったの身体を大きく揺する。
 その反動で、彼女の左手側のベッド脇に、なにかが落ちた。
 散らばったそれらを拾い集めた長太郎が、俺の前に黙って差し出してくる。
 そこには、数えきれないほどに写された、俺の姿があった。
「…………っ……!!」
 力なく泣き崩れる俺のことを、長太郎はただ、黙って見つめているだけだった。


 海から生え伸びるように広がる真っ白い夏の雲。
 果てなく広がる綺麗な青色の空に、静かに打ち寄せてくる波。
 と来るはずだった場所に、俺はやってきた。
 なにもかも、知ってしまったのだった。
 出会ったあのとき、がどうしてあんな儚い空気をまとっていたのか。
 どうして、留学をするなどと言ったのか。
 どうして、俺になにも言わなかったのか。
 どうして、跡部が俺に色々と関わってきたのか。
 の包み込むような優しさを感じたと共に、彼女の苦しみを理解してやれなかった自分に、言いようのない無力感を感じた。
「綺麗な海やで、。お前みたいや」
 にじむ視界を堪えて、あのとき受け取った写真を波打ち際にそっと投げ入れた。
 それでも俺は、残された時間をと一緒に過ごしたかった。
 苦しくても、悲しくても、それを現実として受け止めて、一緒に乗り越えたかった。
 そんな思いを胸に、遠くへ逝ってしまった彼女に、俺は語りかけた。
「なあ、……。愛してるで、これからもずっと」
 たった一枚だけの――。
 嬉しそうに微笑みながらファインダー越しにいる俺に手を振る、の写真を握り締めながら。





end...................







まあ、ベタな終わり方ですが……(^^;;
これで、ようやくシリーズにカタがつきました。
二年もかけて、たかが四話……orz ごめんなさい;
最初の頃に比べて、少しでも文章力が上達していればいいんだけど、どうなんでしょうね。
自分では、なかなか客観的に判断できないものです。
絵なら、一目瞭然なのにね。
(でも、自分が絵師なら、逆のことを言っていそうな気がする……)

タイトルの「あなたへの願い」は、“ヒロインの願い”と“忍足の願い”が掛けられてます。
海に行くという設定は、じつはヒロインの名前にも由来していたりも。
デフォルト設定では、ヒロインの名前は<夏の海>で<夏海>というものになっているんです。
ま、これもベタな感じですが(汗)
今回の夢小説をもって、忍足侑士の夢小説は一旦終了とさせていただきます。
そうそう。
忍足がシングルスで云々のところは、うちの弟から聞いたジャンプのネタバレで書いたものです。
ここに至るまで、忍足にどんな経緯があるかは知らないのです。
ごめんなさいね。(私はコミックス派)

それでは、今回のお話はこの辺で。
今回もお付き合いいただき、どうもありがとうございました。



2005/8/6



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