さんって、好きなやついるの?」
「由香ちゃんなら、いないと思うよ」
 いつの頃からか、何回も言ってきたこの言葉。

の好きなやつって誰だよ」
「私は、好きな人なんていないよ」
「はぁ? お前じゃなくて由香のこと聞いてんだよ、お前なんてどうでもいいし」
「あっ、そ、そうだよね……ごめんね」

 きっと、これがきっかけだったんだと思う。
 結構傷ついた。
 好きだった人だったから。
 でも、だからこそ自衛手段のように、私はああ言うことを覚えたのかもしれない。

 【】は由香ちゃんであって、私ではない。

 なんていう存在は、由香ちゃんの前ではないのも同然で。


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、早くしないと遅れるよ」
 玄関先でそう言って私を呼ぶのは、姉の由香。
 早生まれの私は三月も終わりに近い頃に生まれた。
 由香ちゃんはその前の年の四月六日に生まれたから、私たちは年子だ。
 一年という月日は短いようで、すごく……すごく長い。
 身体つきだってやっぱり由香ちゃんよりは小さいし、頭だって敵わない。
 同じ姉妹だというのに顔だってちっとも似てない。
 美人で、スタイルも良くて、人望もあって。

 ――私なんかとは、大違い。


 氷帝学園男子テニス部といえば、数ある強豪校の中でもトップクラスに入る部類。
 私はよく、男子のコートを……レギュラー陣の練習風景を見ていた。
 皆個性的なプレイをするから、見ていてあっという間に時間が過ぎてしまう。
 同じクラスの向日くんと忍足くんは、私を見つけると結構話し掛けてくれたりする。
 もちろん他の子だって沢山話し掛けてはくるけれど、男の子達の目的は大抵誰だって同じだった。
 私と仲良くなれば、由香ちゃんとも知り合いになれる。

 そう、私はただの、橋渡しに過ぎない。

 だから、あまり男の子と話をするのは好きじゃない。
 けど、向日くんや忍足くんは知り合ってもう一年以上経つけれど、一度もそういうことを聞いてきたことがなかった。


「あ、だ」
「見学してくんか?」
 ダブルスを組んでる二人は、よく二人一緒にいる。
 ときどき部長の跡部くんも混ざっていることもあるけれど。
「うん、ちょっと見せてもらおうかなって」
 二月も半ばに近いから、風が猛烈に冷たい。
 私はダウンジャケットをしっかりと着込んで、フェンス越しに彼らの練習を見ていた。

 二月。
 そう。毎年この時期になると、会う人会う人に聞かれる。
って、誰にチョコレートやるんだ?」
 それも決まって男の子に。
「そういう話って、あまり聞かないんだ、ごめんね」
「ふーん」
 これで終れば、まだいい。
「なんだよ、使えねーよなは。姉貴とは大違いだぜ」
 こんなことを言われるときだってある。

 ――姉貴とは大違い。

 私は由香ちゃんみたいに、皆に好かれるような美人じゃない。
 頭の回転も、由香ちゃんよりはずっと遅い。
 はじめてこんな言葉を言われたときは、それはショックで泣き通した。
 原因を知った由香ちゃんが、その男の子に酷く文句を言ってくれた。
 そうやって、私は由香ちゃんの影に守られて、そして、怯えて生きている。
 でも別に、由香ちゃんが嫌いなわけじゃない。
 大事なお姉ちゃんだし。
 きっと、一生由香ちゃんに敵うものなんてないんだとは思うけど。



 クリームパンと焼きそばパン。
 この二つが大好きな私は、毎日のように購買で買っている。
 それが、今日に限って四限目の授業が長引いてしまい、慌てて行ったんだけれど時既に遅し。
 ものすごい人だかりに気圧されてしまい、途方に暮れていた。
「クリームパンと焼きそばパンだろ?」
 私より少しだけ背の高いところから、声を掛けられる。
 え??
「おばちゃーん! クリームパンと焼きそばパンと、メロンパンとドーナッツとサンドイッチ2コに牛乳ーっ!」
 ぴょんぴょん飛び跳ねて、誰よりも目立つことは間違いない。
 すぐに気付いたおばちゃんは、向日くんに紙袋いっぱいのパンを手渡してくれた。
「ありがと、向日くん」
って、いっつもそれ食ってて飽きない?」
「ううん。だって大好きなんだもん、これ」
 しっかりとそれらを握り締めて言う私を見て、小首をかしげる。
「弁当とか持ってこないんだ?」
「あー、由香ちゃんは持ってきてるんだけどね」
「お前は持ってこないんだ?」
「なんとなく、同じのが嫌なだけなんだけど……」
 きっとこれが、せめてもの自己主張。
 帰る家も一緒で、学校も一緒。
 そんな私が、唯一由香ちゃんとは違うと言い切れるものが、これだけなんだと思う。
 話をしながら二人で教室に向かっている途中だった。
「ところで、さ……」
 向日くんが足を止めた。
 つられて私もその場に立つ。
「なに?」
って、誰か付き合ってるやつとかいる?」




 ………………。




「ゆ、由香ちゃんなら、多分いないと思うよ」
「そ、そっか」
「……うん」
 思ってもいなかった向日くんの言葉に、いい加減言い慣れてしまった言葉も、少しつっかえる。
 “好き”っていう感情とは違う。
 でも、結構信頼してたし、そういう対象で見られてるなんて考えたこともなかった。
「「………………………………」」
 手にしているパンは大好きなパン。
 お昼だし、お腹もすいているはずなのに。
「あ、あっ、そうそう! 私、ダイエットしてるんだった。パン食べちゃって!」
 食べる元気が沸いてこなかった。
 向日くんに押し付けるようにパンを渡して、少し小走りで廊下を曲がった。
 芸術棟と呼ばれている、美術室や書道室なんかがある校舎に入る。
 ここはあまり人がこないから、私はよくサボリにきていた。


 嫌なことや辛いことがあったときなんかや、人と会いたくないときに。


 四部屋ある音楽室の一番小さく、古くて使われていない部屋に入って、鍵をかける。
「私っていったい、なんなんだろう……」
 久しぶりに、かなりの自己嫌悪に陥った。
 まさか、向日くんにまで、あんなこと言われるなんて……。
 誰も来ないのをいいことに、随分と長い間音楽室に篭っていた。
 昼休みが終って五限開始のチャイムが鳴っても、足が動かなかった。
 音を消してある携帯がブルブルと震えて、メールの着信を教えてくれる。
 “なにやってるんだよ、授業はじまってるぜ”
 向日くんからだった。
 返事を送る気にもなれない。

 ――私が、由香ちゃんだったらよかったのに……。



 流石に二限続けて休むわけにもいかなかったから、休み時間にこっそりと教室に戻った。
ってば、さっきの時間どこ行ってたの?」
 いつも一緒にいる友達の樹里ちゃんが、心配そうに声をかけてきた。
「うん、ちょっとね……」
「大丈夫なの?」
「平気だよ」
「でも、顔色悪いじゃん」
「………………」
「また、いつものこと言われたんでしょ」
 樹里ちゃんはとっても鋭い。
 小学校の頃から仲がよかっただけに、私の悩みも理解してくれているから、よくこうやって慰めてくれたりする。
なんだから、なにを言われたって気にするなって言ってるのに」
「……そう、だよね」
「そうだよ! ついでにね、いいこと教えてあげる」
 ??
 嬉しそうに笑いながらカバンからファイルを取り出して、一枚のプリントを見せてくれた。
 【一組・四組合同調理実習について】
 紙にはそう書かれてある。
「調理実習?」
「うちのクラスって五限が家庭科の授業でしょ? 一組は六限が家庭科なんだって。で、来週はバレンタインも近いからってことで、合同の調理実習をするって決まったんだって! しかも、メニューはお菓子のみ。男子も女子も作るらしいよ」
 【各自メニューを決め、材料を持参すること】
 樹里ちゃんの説明を受けながら、私はさらにため息をついた。
 よりにもよって、一組。

 由香ちゃんのクラスと合同になるだなんて……。



 家に帰ると、由香ちゃんからもこの話を聞かされた。
「楽しみだよね、
「…………そうだね」
「なに作ろうかなー。ケーキにしようかな」
 由香ちゃんは料理だってお菓子作りだって得意で。
 それに比べたら、私は……やっぱり不器用で。
はなに作るの?」
「わかんない。まだ考えてないんだ……」
「そうなの?」
「うん……。ごめん」
「なんか元気ないんじゃない? 
「ちょっと気分悪いから、先寝るね」
 今日は特に、由香ちゃんと一緒にいるのが辛かった。
 早く一人になりたい。
 話を切り上げて、私は早々と布団に潜ったのだった。



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 一週間が経つのなんて本当にあっという間だった。
 樹里ちゃんはアップルパイで、由香ちゃんはビタースイートチョコレートケーキとかいうなんだかものすごく難しそうなお菓子を作るらしい。
 私は……クッキーぐらいしか作れないから、結局これ。
 少しでもバリエーションを多くしようと思って、アーモンドやココナッツやナツメグとかココアとか、そんなトッピングやスパイスを用意した。

 教室は朝からなんだか浮き足立っていて、いつもなら女の子たちがチョコレートをあげるはずなのに、今年に限っては、男の子と女の子がそれぞれ交換をするっていう暗黙のルールができているらしい。
 今日も朝から、いつもの質問をいっぱいされた。

さんって誰にやるの?」

 ――由香ちゃんの好きな人なんて、私が知っているわけないのに……。
 バレンタインだっていうことも色褪せて、私は早く今日が終ることを願った。



っ、今日なに作るんだ?」
 あの一件以来少し距離を置いていた向日くんだったけれど、何事もなかったように今日は朝から話し掛けてくる。
「俺も知りたいわ、がなに作るんか」
 向日くんを避けるってことは、必然的によく一緒にいる忍足くんとも距離をとるということで。
 忍足くんとも久しぶりに話す気がする。
「あ……私?」
「そうや。に聞いてんのやから、当たり前やろ?」
「私はクッキーを作ろうと思って。由香ちゃんはなんとかケーキって言う、難しいのみたいだけれど……」
 そう言った私を見て向日くんは下を俯き、忍足くんは大きくため息をついた。
 ??
 ……クッキー作るなんて、やっぱり恥ずかしいのかな……。
「あ……でも、どうせ誰かにあげるわけじゃないし、お腹壊したりする人なんていないから平気だよっ」
「なんやそれ」
 顔をしかめる忍足くんが、すごく怒ってる風に見えた。
 私、失礼なこと言っちゃったのだろうか。
 またしても気まずい雰囲気が流れているところに、エプロンを身につけた先生が教室に入ってくる。
「はい、各自席について!」

 調理時間は七十分しかないから計算して調理するようにと言われ、皆一斉に作業に取り掛かった。
 しばらくすると由香ちゃんがいるテーブルの方に人だかりができて、皆が感心したように見入っているのが見えた。
「あー、やっぱりのお姉ちゃんはすごいやねー」
「樹里ちゃん……」
 カシャカシャとボールの中で泡だて器を回しながら、諦めのため息を漏らす。
 分かってはいたことだけれど。
 なんにつけたって優秀な由香ちゃんのことだから。
 けど、私たちのすぐ後ろからも感心するような声が聞えてきた。
「侑士すげーっ! なんでこんなの作れんだよー」
 向日くんの声を聞きつけたのか、こっちの方にも人だかりができた。
「なに!?」
 樹里ちゃんも興味深げにそっちに偵察に向った。
 私は……というと、黙々と生地作りに励む。
 人のこと気にしてる余裕なんて、ないもの。

 家にあった型を使って、星とかハートとか、なんだか分からない動物の形にくり抜く。
 温めておいた鉄板にバターを塗って、トッピングを施したそれらを並べた。
もクッキーやってるんだ! 俺と同じだな」
 オーブンで焼いているそれをじっと見つめていると、後ろから向日くんが顔を覗かせた。
「向日くんも一緒なんだ」
「母さんに一生懸命教わってきたんだぜー」
 自慢げに言う向日くんがとてもおかしかった。
「おいしくできるといいね」
 一緒になってオーブンを見つめる。
「あのさ、……」
 オレンジ色に灯っているオーブンの中を見つめて、向日くんが口を開いた。
「なに?」
「そのク……」
「岳人、ちょおこっち来てみ!」
 途中までなにかを言いかけていた向日くんだったけれど、忍足くんに呼ばれると、そのままなにも言わずに行ってしまった。

 ……ク?

 …………なんだったんだろう?



 それぞれがそれぞれのお菓子を完成させていって。
 その場で食べるようにとは言われたけれど、誰一人として口にしなかった。
 私は食べようとしたんだけれど、樹里ちゃんに思いきり止められた。
「ちょ、ちょっと! あんたなんでこんなところで食べちゃうわけ!?」
「え……? だって、食べろって先生言ってたし」
「ーーーーっもう! 今日はバレンタインなんだから! ほら。さっさとこれに入れちゃいなさい!」
 そう言って、自分のものとは色違いのピンク色のハートの箱と、真っ赤なリボンを手渡してくれた。
「……けどね、樹里ちゃん。私、こんなのあげようと思ってる人いないし」
「待ってる人は、いるかもしれないと思わない?」
「いるわけないよ。由香ちゃんじゃあるまいし」
「……ま、お父さんにあげたっていいんだし、ラッピングだけはしときなよ」
 両手にしっかりと握らされた箱とリボンに、私はしぶしぶ焼きあがったクッキーを入れた。
 どうせ後で自分で食べちゃうんだから、箱が勿体ないと思ったけれど。



 放課後の教室は、いたるところでお菓子の交換がされていた。
 いつもは皆、あっという間に教室からいなくなってしまうのに、今日は別。
 由香ちゃんのところは人が殺到しているらしいということが、随時耳に入ってくる。
 私の斜め前の席の忍足くんのところにも、女の子たちが殺到していた。
「忍足く〜ん、これ受け取って!」
 もう既に、机の上は置ききれるスペースもなくなっている。
 向日くんだって、負けずにいっぱい貰っていて。
 やっぱりテニス部のレギュラーって凄いんだと、改めて思う。
 カバンに入ったハートの箱は私のもの。
 早く家に帰って紅茶と一緒に食べよう。
 荷物を持って教室を出た。
 昇降口で靴に履き替えようとしていると、いつのまに教室を出てきたのか忍足くんの姿があった。
は、誰かにやったん?」


 …………。


 また、なの?


 ……………………。


「あ、由香ちゃんのことだったら……私、に聞かれてもちょっと……」
 ズキズキと胸が痛む。
 向日くんに言われたときよりも、なんだか苦しい。
「ごっ、ごめんね、ちっとも役に立てなくて……。由香ちゃんなら多分まだ教室にいると思うから、そっちに行ったほうがいいよ」
 息が苦しかった。
 なんでだろ、言い慣れた言葉なのに。
 どうして苦しいんだろう。
「自分の名前、言うてみ?」
 不思議なことを、忍足くんは言った。
「名前?」
「そうや、名前」
……だけど」
 どうして今更こんなことを聞くんだろう?
 クラスメイトなんだし、知らないはずもない。
 しかも、知り合って随分経つんだし。
は、自分のことやろ?」
「え?」
「なんでお前はいつも“由香ちゃん”言うねん。自分のこと言われてるって、思わへんか!?」
 声を荒げて言われ、驚いてカバンを落としてしまった。
「“由香ちゃん”が、そんなに恐いんか?」
 そのカバンを拾いながら、忍足くんは私が一番気にしている言葉を口にした。


は、どこにおるん?」


 ボロボロと、自分じゃ止められない勢いで涙が溢れ出した。

 【
 なんて、誰も見向きもしないし、
 誰だって、

 【由香】
 しか、見てない。


 それって、違うの?


「っ、んっ……」
 声を殺して嗚咽を必死で堪えた。
 忍足くんのたった一言が胸に染み渡った。
 いつだって私は、由香ちゃんに怯えていて。
 こんな私のことなんて、気にかけてくれる人がいると思ったことだってなかった。
 存在自体、きっとなくたっていいものだと思ってた。
 下駄箱の前で泣いている私とその前に立っている忍足くんの姿は、帰宅する生徒達の注目の的になっていたみたいで、遠巻きにたくさんの視線を感じた。
 忍足くんは黙って私の手を引っ張ると、私の行きつけている第四音楽室まで行き扉を開け、中に私を押し込めると、一緒に教室に入って鍵をかけた。
 壁際で泣いている私の横に、忍足くんはなにも言わずに腰をおろす。
 静寂の訪れた部屋の中に響くのは、私の泣き声だけ。
 ただ黙って、なにも言わず、なにも聞かず。
 忍足くんは隣に座っていた。


 目が腫れるほど涙を流し、なんとか喋れるような状況になった。
 でも、こんな泣きじゃくった顔なんて、とても人には見せられない。
「ほっといて、帰ってくれてよかったのに」
 膝を抱えてそう言う私の頭にそっと手が触れた。
「俺が泣かしたんやで?」
「私が悪かったんだもん」
「自分を責めるんは、もうやめや」
 触れていた手が頭を包んで、私の顔が忍足くんの胸に押し付けられる。
 何度も何度も、頭を撫でられて。

 心配ないんだよ。
 もう、気にしなくてもいい。

 まるでそう言ってくれているみたいで。
 止まったはずなのに、また、涙が出た。
 忍足くんのシャツをギュッと握り締めて、もう一度、泣いた。



「よう出る涙やなぁ」
 今度こそ落ち着いた私を胸から離すと、彼は腰を上げた。
「ちょお忘れもん取り行ってくるから、待っといてな?」
 そう言い残すと、音を立てずに扉を閉めた。
 一人になって、たった今のことを思い出す。
 ――私、すごい恥ずかしいことしたかもしれない。
 忍足くんに縋って泣くなんて……。
 なに考えてるんだろう、本当に。
 こんなところで忍足くんを待っているのも酷く場違いな気がする。

 どうしよう。
 私なんかが、頼っていい相手じゃない。
 どうしよう……。

 たった今、忍足くんが出て行った扉に手をかける。
 手をかけたけど……開けられなかった。
 温かかった忍足くんの優しさが、私の行動を鈍らせた。
 ズルズルと扉にかけた手が下に落ちてしまう。
 そのまましゃがみ込んで、膝を抱えるようにうずくまった。
 ドアの間から隙間風が流れ込んできて、ゾクゾクと寒気が背中をよじ登る。
 思わず身体を抱きすくめようとしたそのとき、大量の風が吹き込むと共に扉が開き、忍足くんが戻ってきた。
 足元にいた私に笑いながら、首筋に暖かいものが当てられる。
 ??
 驚いてその暖かなものに手を伸ばすと、今度は頬にそれが当てられた。
「外は寒いわ、ほんま」
 そう言って私の手を取り、レモンティーの缶を持たせてくれた。
 これって……。
 とっさに忍足くんの顔を見上げると、私の頭を撫でながら綺麗な微笑を浮かべていた。
、ようこれ飲んでるやろ?」
 こんな些細な優しさが嬉しかった。
 そんなことまで見ていてくれていたのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
「ありがとう」
 冷え切った手に、それはゆっくりと温もりを与えてくれる。
 それを頬につけて目を閉じる私の後ろに、忍足くんが腰を下ろした。
 両足の間に私の身体がすっぽりと入ってしまい、後ろから抱きすくめられるような形になってしまう。
 こんな体勢に固まっている私の耳元のすぐ傍で、忍足くんの声がする。
、そのまま目ぇ閉じとってな?」
「え?」
「開けたらあかんで」
 再び言われて、私は素直に目を閉じた。
 隣では、なにかを開けるような紙のすれる音がする。
 忍足くんの身体が少し離れたかと思うと、すぐにまた、彼の温もりが背中に感じ取れた。
 鼻先を、甘い香りが過る。
 何度も目を開けたい衝動に駆られたけれど、それをぐっと我慢した。
「ええよ、開けても」
 その言葉と共に目を開けようとした瞬間、口唇に丸いなにかが当てられた。

 な、なにっ!?

 びっくりして身体を後ろに逸らしたけれど、そこには胸があって上手く離せなかった。
「大丈夫、変なもんやないし。だから口開けてみ?」
 恐る恐る口唇を開くと、忍足くんは私の口の中にその丸いものを含ませた。
 これって……。
 ほんのり苦味の効いたチョコレート。
 噛み砕くと、中からオレンジの風味の効いたリキュールが溢れてきた。
「美味しい……」
 思わず頬を抑えてしまう私を見て、忍足くんは疑わしそうに首をかしげた。
「ほんまか?」
「うん。これってもしかして……忍足くんが作ったの?」
「おかんが作ってたやつを、見よう見まねでやけどな」
 さっきの調理実習で作っていたものなんだ、これ。
 でも……。
「私が食べちゃってもよかったの?」
 つい今さっきまで、忍足くんはいっぱい女の子たちからプレゼントを貰ってて。
 そんな彼女たちを差し置いて、私みたいなのが忍足くんの手作りのお菓子なんて……。
「これでも、のこと思って作ったんやで……」
 私、を……?
「もしも他に渡したいやつがおらへんのなら、俺にくれへんか?」
 私が、作ったものを……?
の欲しいんやけど」
 忍足くんは、由香ちゃんじゃなくて……私のが欲しいっていうの?
 背中越しに腕をまわされて、私の手の甲に彼の手が重なる。
「あ……味の保証なんてできないよ?」
「なんや? 変なもんでも入れたん?」
「……そうじゃないけれど、私、料理下手だし」
「食べてみな分からんやろ?」
 とうとう根負けしてしまい、私は恐る恐る自分のカバンに手を伸ばしてハート型の箱を取り出した。
「めっちゃ可愛いやん」
 ぴったりと身体が密着していて、どきどきと鳴る心臓の音が耳元まで響いている。
 私の手をとって、一緒にラッピングされた箱を開ける。
 さっき下駄箱のところでカバンを落としてしまったから何枚か割れているのもあったけれど、そんなことすら気にせずに、忍足くんは綺麗なままのものを一枚食べてしまった。

 …………。
 沈黙。

 やっぱり……不味かったんだ。
 がっくりと項垂れる私の後ろで、忍足くんがどんな顔をしているかまでは見えない。
 でもきっと、眉間に皺を寄せているはずだ。
 感想を聞くのも恐くて、私はただただ、黙っていた。
「うん」
 ?
 よく分からない言葉を、忍足くんが口にする。
 うん?
「こないに美味いクッキー食べたのはじめてやわ」
 …………え?
も食ってみぃ」
 箱の中の割れて小さくなったひとかけらを摘んで、私の口唇にあてがった。
 確かに、いつもの私にしては上手くできたほうかもしれないけれど、でも……。
「に、苦くない?」
 焦げたような味がした。
「これは苦いっちゅーんやなくて、香ばしい言うんやで?」
 さらに手を伸ばして、もう一枚を口に運ぶ。
はこっちな」と言って、私には忍足くんが作ったトリュフを食べさせてくれる。
 三個くらい食べさせて貰っていたら、不意に忍足くんが甘えたような声を上げた。
「なぁ、に食べさせて貰いたいんやけど、これ」
 目の前に差し出されたのは、忍足くんが作ったお菓子。
 二人してこんな馬鹿げたことをするなんて、普段の私だったら絶対にしないはず……。
 なんだけど、
 緊張と、チョコの中の洋酒に酔ったみたいな感覚に陥って。
 まるで操り人形のように、言われるままに忍足くんの口元に指を持っていった。
 少しポーっとした頭の中で、“綺麗だなぁ……なにかを食べてる姿も”などと思ってしまう。
 そんな彼に思わず見惚れていると。


 目の前に、

 彼の口唇が迫ってきて、

 気付いたときには、

 キスをしていた。


 忍足くんの口の中で割られたチョコから、リキュールが溢れ出す。
 少しだけ苦いチョコレートと一緒に、私の口にそれが移された。
 舌が溶ける……とよく言うけれど、今のこの状況はまさしくそんな風だと思う。
 私と忍足くんの舌が絡まるだけでも大変だというのに、アルコールがそれを更に助長させてしまう。
 恥ずかしさや、緊張や、今のこの状況にクラクラしてきて……一瞬だけど意識が飛びそうになってしまった。
 それをしないで済んだのは、まるでタイミングを計ったかのように忍足くんが口唇を離したからだった。
「リキュール入れ過ぎてしもうたかもな、平気か?」
 リンゴ病よりも凄い状況になっているだろう私の顔を見て、心配そうに前髪をかき上げてくる。
「た……食べさせてあげるだけだったのに……」
 顔を覆って抗議するけれど、
「最初から、キスする気やったって言ったら、怒る?」
 …………。
 確信犯だった。
「好きなんや、が」
 目元に優しく口付けをされて、忍足くんの胸に抱きしめられた。
 由香ちゃんではなく私自身を見てくれる忍足くんの言葉に、また、涙が出そうになった。
 グッと堪えて、こんな私を求めてくれる忍足くんの背中に手を回す。
「私でいいなら、忍足くんの……傍にいたいよ」
 痛いくらいに抱きしめ返されて、もう一度、口唇を重ねる。
 今度のキスは、チョコもリキュールも関係ないほど甘かった。



 すっかり暗くなってしまった学校の廊下を、忍足くんと手を繋いで歩いていた。
 温かかったレモンティーの缶もすっかり冷え切ってしまっているけれど、忍足くんと触れ合っている手はとっても温かい。
 足取りを私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる忍足くんの足がふと止まった。
「忍足くん?」
「しっ!」
 建ち並ぶ柱の陰に連れ去られて、ついでに手で口まで塞がれた。
 忍足くんが息を殺して見ているほうに視線を向ける。
 私たちと同じように仲良く手をつないで……

 手をつないで……!??

 寄り添って歩いているのはなんと、由香ちゃんだった!
 見間違えるはずがない。
 しかも、その横にいる人は……。

 あ、あ……あの人って!!

 隣の忍足くんを見上げると、彼もびっくりしたようにその人を凝視していた。
 無理もない。
 私以上に、忍足くんにとっては面識のある人なんだから。
「お返しは、指輪がいいな」
 ねだる言葉を向けられた先に居るのは、あの、あまりにも似合わない格好でコートに立つ……榊先生、その人だった。
 私たちに気付かないまま歩いていってしまった由香ちゃんと榊先生の後姿を見て、忍足くんはやっと手を離してくれた。
「し、知ってた?」
「いや、はじめて見たわ」
「私もだよ……」
 半ば呆然としてしまう私だ。
 だって、由香ちゃんが……まさか先生と。
 どうりで私にも教えてくれないわけだし、誰とも付き合っていないわけだ。
「これで姉妹は、二人とも売り切れやな」
 ……二人とも。
 差し出された手をそっと掴んで、私は忍足くんに抱きつく。
「手放したり、しないでね?」
「当たり前やろ」
 綺麗に微笑む忍足くんに、そして、そう約束してくれる彼の言葉に、私はこれまでにないほどの幸せを感じた。

 ――もっと自分に自信を持つように。

 そう言ってくれた忍足くんに、少しでも応えられるように。
 時間はかかるかもしれないけれど、

 ――前向きに頑張っていこう。

 小さく小さく、私は心に誓った。



....the end...........







前半、暗い展開のお話で申し訳ございませんでした(^^;
姉の影に怯える、ちょっと不器用な主人公の構図を書きたかったもので…。
岳人くんも結構頑張ってたようなのですが…。
あくまでも、【忍足侑士】メインなもので。

最後のオチがありきたりで申し訳ないです;
人気者の姉は、太郎ちゃんにラブラブという事で、一件落着?でしょうか。

それでは、今回もありがとうございました。


2003/2/13





====【おまけ】===============================================

岳人:「……なんで侑士ばっかり……」
忍足:「岳人にやってチャンスはあったやろ?」
岳人:「そんなこと言ったって、侑士が邪魔したじゃんか!」
忍足:「当たり前やろ、人生チャンスは一度きりや。
    みすみす、をお前に獲られてたまるかいな」
岳人:「卑怯だぜ! 音楽室に連れ込むなんてっ!!」
忍足:「あーもー、諦めや。は俺のものなんやから」
岳人:「クソーーっ! 侑士とのダブルスなんて解消してやるーー!」
忍足:「由香ちゃんにしたらどうや?」
岳人:「ヤダー! オレはが好きなんだっ」
:「向日くん……ごめんね、気持ちは嬉しいんだけど」
岳人:「ーーっ(抱きつく)」
:「向日くん……」
忍足:「おまっ、何どさくさにまぎれて、胸に顔埋めてんねん!!」
岳人:「悔しかったら侑士もちっちゃくなってミソ」
:「………………」
忍足:「ええ根性しとるな、岳人ー!」
岳人:「ふーーんだっ、これからもっと嫌がらせしてやるから」

――――岳人の方が、美味しい立場なのかもしれない(笑)



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